自分よりも姉を慕う息子…伝説のストリッパーが「母親」だったころの忘れられない「記憶」
1960年代ストリップの世界で頂点に君臨した女性がいた。やさしさと厳しさを兼ねそろえ、どこか不幸さを感じさせながらも昭和の男社会を狂気的に魅了した伝説のストリッパー、“一条さゆり”。しかし栄華を極めたあと、生活保護を受けるに至る。川口生まれの平凡な少女が送った波乱万丈な人生。その背後にはどんな時代の流れがあったのか。 【漫画】「しすぎたらバカになるぞ」…性的虐待を受けた女性の「すべてが壊れた日」 「一条さゆり」という昭和が生んだ伝説の踊り子の生き様を記録した『踊る菩薩』(小倉孝保著)から、彼女の生涯と昭和の日本社会の“変化”を紐解いていく。 『踊る菩薩』連載第30回 『「どうして裸になんて…」生きることに必死だった伝説のストリッパーが「脱ぐこと」を決意した日』より続く
わが子を施設へ
2021年に99歳で亡くなった作家の瀬戸内寂聴は1948年、3歳の娘をおいて、愛人の元に走った。晩年になっても、子どもを「捨てた」ことを「後悔している」と語っている。 一条も清を産んで半年で施設に預けた。 「結婚してすぐ子どもができた。清っていうの。男の子。鷺宮(東京都中野区)の施設に預けることになった。そりゃ、本当は顔も見たいし、話もしたい。でも、もういらんわ。そう思うてます」 一条はメディアとのインタビューや著名人との対談で、夫が勝手に息子を施設に入れたと説明している。ただ、これも事実ではない。 晩年の彼女を知る加藤詩子が書いた『一条さゆりの真実 虚実のはざまを生きた女』で、その辺りの事情が説明されている。加藤は一条の死後、彼女の次姉から話を聞き、仮名で紹介している。 それによると、一条は「ミルク代もない」と言って、清を次姉に預けた。次姉は自分にも子どもが2人いて、大変な時期だった。そのため、「今の段階では施設しかない」と判断したらしい。次姉は「裕二(清二のこと)さんが施設に入れた」と語っている。
食い違う主張
一方、清二は加藤にこう説明した。 「私がおん出されて、和子(一条)が子どもを乳児院に入れるようにしたんです」 そして、彼は当時について、 「そりゃ寂しかったよ」 「おカネがねーんだもん、しょーがない……」 と話した。 次姉、清二の話を総合すると、施設に預けた理由は貧困だった。清二の稼ぎが悪いため、清を育てられない。この部分は一条の証言とも一致する。夫の稼ぎでは育てられなかった。そして、積極的だったか、しぶしぶだったかはともかく、一条も了承する形で長男を施設に預けている。 一条は息子への愛はあったと言いたかったのか、私にはこう説明していた。 「踊り子になってから訪ねたことが2回、ありました。預けてから3、4年したころです。初めは浜松の劇場に出ているとき、2回目が静岡にいたときやった。いっぺん顔を見てやろうと、休みをとったの」 昼寝をしている清を職員が起こして、「お母さんだよ」と言ったが、清は泣くばかりで自分を母と思うことはなかったという。 「やっぱり涙が出たね。本当は子どもと一緒に暮らしたかったですよ」 一条はこう語りながら、涙をふいた。ただ、彼女の姉や清二の証言によると、このエピソードも創作の可能性が高い。