「ちぎれた皮膚をぶら下げた人々」「花壇に同年代の男子が積まれていた」 ヒロシマの14歳が見た光景とは
米軍が広島に原爆を投下した1945年8月。被爆者として体験を語る河野キヨ美さん(93)は当時14歳の女学生で、爆心地から35キロ離れた市郊外に住んでいた。本土決戦に備え、米兵をなぎなたで突き殺す練習を繰り返し、神風が吹くから日本は戦争に負けないと信じる軍国少女だった。 【写真】1946年8月、長崎・浦上天主堂跡にて ■静かな夏の朝、突然の爆音 8月6日午前8時15分、静かな夏の朝だった。突如、金属的な爆音が響き、地面が揺れた。家の外に爆弾が落ちたのではと、はだしで外に飛び出したが、空に大きな雲がわき上がるのが見えただけだった。 夜、仕事から帰った父が駅に集まっている人の話を聞きに行くと、広島市内の悲惨な状況が伝わってきた。父から「市内に住む姉2人は亡くなっただろう。骨を拾いに行きなさい」と言われ、わらで骨つぼを編んだ母とともに翌7日に広島市に入った。駅に降り立つと動物を焼いたようなにおいで息が詰まった。ちぎれた皮膚をぶら下げた被爆者たちが長い行列を作っていた。「同じ人間には見えなかった」と語る。 下の姉が勤めていた病院にたどり着くと、幸い姉は無事だった。病院の外に出ると、花壇の上に死体がまるで材木のように放射線状に積まれていた。近寄って名札を見ると、自分と同じ年頃の男子中学生が大半だった。 ■水面に広がる地獄、母にすがって泣いた 上の姉に会うため橋を渡ると、水面(みなも)いっぱいに死体が浮かんでいた。原爆投下直後、炎に追われた人たちはみんな川に飛び込んだ。死体は引き潮で海に流され、満潮になれば川に戻ってきた。腹は大きく膨らみ、口から真っ黒の舌が飛び出ている。性別も分からない状態だった。上の姉にも会うことができたが、周囲の光景が恐ろしく、母にすがって泣きながら歩いて帰った記憶がある。 河野さんは70代になってから、花壇に寝かされていた中学生の絵を描き、証言を始めた。被爆者の先人たちが何十年もかけて核廃絶を伝えてきたことが国際的な広がりを見せ、2021年に核兵器禁止条約が発効された。ロシアがウクライナに侵攻したのはそのおよそ1年後。「あれだけ一生懸命伝えてきたことが世界の人の耳に届いていないのか」と絶望も感じた。しかし、今は気を持ち直してこう思う。 「唯一、原爆の恐ろしさを体験した日本は、どんなことがあっても、世界の人たちに核兵器の恐ろしさをしっかり伝えなければいけない」