「昼間から一升瓶を抱えて…」すさみきった「伝説の踊り子」を「ふつうの板前」が救えた理由
1960年代ストリップの世界で頂点に君臨した女性がいた。やさしさと厳しさを兼ねそろえ、どこか不幸さを感じさせながらも昭和の男社会を狂気的に魅了した伝説のストリッパー、“一条さゆり”。しかし栄華を極めたあと、生活保護を受けるに至る。川口生まれの平凡な少女が送った波乱万丈な人生。その背後にはどんな時代の流れがあったのか。 【マンガ】「だから童貞なんだよ」決死の覚悟の告白に女子高生が放った強烈な一言 「一条さゆり」という昭和が生んだ伝説の踊り子の生き様を記録した『踊る菩薩』(小倉孝保著)から、彼女の生涯と昭和の日本社会の“変化”を紐解いていく。 『踊る菩薩』連載第37回 『すぐ裸になる踊り子にお飾りの経営者…「ストリップを取り締まる警察」と「儲けたい劇場」の壮絶な「いたちごっこ」』より続く
対価としてのサービス
プロ野球で巨人軍の9連覇(V9)が始まるのが1965(昭和40)年である。長嶋はすでに4度、首位打者になり、球界を代表するスーパースターになっていた。 長嶋と同じ58年にデビューした一条も65年ごろには、ストリップ界の看板スターに成長していた。彼女の出るときだけ、劇場が料金を高く設定するようになる。舞台度胸のついた一条は踊りながら、客とこんなやりとりもしている。 「あんた、なんぼ入場料払っているの?」 「かなわんな。自分の舞台の入場料も知らんのかいな。普段は700円やけど、今日はあんたが出るから1000円や」 「本当? 可哀相にね。よし、300円分見せたるわ。どうぞ楽しんでね」 こうやって一条はサービスの質を高め、繰り返し逮捕される。
四国での芸者生活
警察とのやりとりにはすっかり慣れていた。ただ、罰金刑ではなく懲役刑を受けたときはさすがにショックだった。執行猶予が重なると、実刑の可能性が高くなる。刑務所行きを避けるためには裁判で争う必要があり、裁判費用もかさむ。劇場側もそこまでのリスクは負いたがらない。 そのため執行猶予付きの判決を受けると、猶予の期間中は舞台を離れる踊り子もいた。一条も一時期、松山・道後で温泉芸者をした。俳優の金子信雄との対談で、彼女はこう語っている。 「ステキなファンがついたのね。年齢は52、3歳、四国の松山の人で、劇場にくるたびに、ポーンと帯締めか履きものなんかくれるんです。あたしも好きになって、いっそのことこの人のところに行こうと思うて」 松山まで追いかけていったが、この男性は会社が倒産し、長崎に去ってしまった。その後、一条は道後で芸者になった。 当時の温泉街では売春も少なくなかった。一条もカネを積まれたらしいが、「あたしは好きな人でないと、ようついていかんしね」と売春はしなかったと語っている。 66年5月に最初の執行猶予期間が過ぎた。すると一条はその3ヵ月後の8月、高知市で舞台に復帰し逮捕されている。