【追悼企画連載再録】東京へ引っ越しだ!/大島康徳の負くっか魂!!
中日最終年の筆者。117試合出場で規定打席には届かなかった
亡くなった大島さんを偲び、連載のいくつかを抜粋して紹介しています。今回は中日のラストイヤーと日本ハムへのトレードの話です。 ◎ ナオミさんとの結婚2年目の1987年、星野仙一さんがドラゴンズの監督になりました。僕と星野さんは同期入団で、大卒(明大)だった星野さんがドラフト1位、僕が3位でした。最初は完全に雲の上の人でしたが、一軍に上がってからは、遠征でも「おい、行くぞ!」で飲み屋に連れていかれ、「帰れ」で門限までに帰される繰り返しでした。こう書くと仙さんが大酒飲みみたいですが、ほとんど飲みません。それで酔っぱらった僕らと一緒にいてくれるんですから、それだけでもほんとすごい人ですね。 一時期は、いつも一緒にいました。よく家にも呼んでもらって、奥さんにご飯を食べさせてもらったりしました。オフはいつも運転手です。いつだったかゴルフが1週間くらい続いたことがあった。仙さんは飲まないけど、僕の場合、終わってから酒を飲んで、麻雀をして、少し寝て、またゴルフなんですよ。3日目までは、ふつうにできたけど、4日目はゴルフクラブを引きずって歩いていた。 5日目、「あすも頼むぞ」って言われて「はい」とは言ったんですが、案の定、寝坊しちゃったんですよ。仙さんから電話もらって、歯も磨かず行ったけど、この日は一番スタートだったんでかなりやばい。これは遅刻かと青くなっていたら、仙さんが「俺が運転する!」。いや、詳しくは書きませんが、すごかったです。めちゃめちゃです。でも、それでなんとか間に合って、しかも仙さん、そのコンペで優勝です。僕は全然ダメでしたけど。 そのあと、仙さん、何か用事があったらしく「お前が運転して東京に行け」と。さすがに仙さんは後ろでぐーぐー寝ていました。嫌がらせで何度もブレーキをかけましたが、起きなかったな(笑)。 でも、とにかく僕は・・・
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週刊ベースボール