爆弾を身体に巻いて自爆…イスラエルと衝突つづくヒズボラはなぜ「強力な戦闘集団」になったのか
2023年10月に発生したハマスによるイスラエル攻撃に端を発し、緊張が高まる一方の中東情勢。ここ数日特にイスラエルと一触即発状態となっているヒズボラという組織はどのように誕生し、イスラム世界ではどのように評価されているのだろうか。国際政治学者の高橋和夫氏の『なぜガザは戦場になるのか』には中東情勢を理解するためにいまこそ知りたい、その歴史的背景が記されている。 【写真】爆弾を身体に巻いて自爆…ヒズボラはなぜ「強力な戦闘集団」となったのか
ヒズボラとは何か?
イスラエルが警戒するヒズボラとは、どのような組織なのだろうか。ヒズボラとは、アラビア語で「神の党」という意味である。1982年に、イランの支援でレバノン南部で創設された。 ヒズボラの支配地域は、レバノンの首都であるベイルートの南から、レバノン南部一帯である。ヒズボラの戦力や戦闘員の能力は、レバノン正規軍を上まわっている。 軍事力だけではない。ヒズボラの政治部門はレバノンの選挙に参加しており、2022年の定数128の国会議員選挙で半数近くの62議席を獲得するなど、大きな政治力を持っている。 また、支配地域では貧困状態の人々に対し、医療や福祉、教育を提供するなど、住民サービスも行っている。先に述べたハマスと同様のNGO的な側面である。また、ヒズボラの戦闘員として、イスラエルとの戦いで負傷した若者や殉教した兵士の家族への支援を行っている。ヒズボラの指導者であるナスララは、息子をイスラエルとの戦闘で亡くしている。「息子が死んで悲しいが、これでやっと殉教者の母親たちの目を見て話すことができる。親としての悲しみを共有できる」と述べている。 本人は、暗殺を恐れて集会に直接に顔を出すことはないが、映像を通じて話しかける。人々の心を掴むのが巧みだ。
レバノンは「生きた宗教の博物館」
ヒズボラがなぜ誕生したかという理由を説明するために、少々回り道になるが、レバノンの歴史をたどりたい。レバノンはかつてオスマン帝国の領土であったが、第一次世界大戦後にシリアと共にフランスの支配下に入った。レバノンが独立し、フランスが撤退したのは1943年のことだ。 レバノンは、宗教的にはキリスト教とイスラム教のさまざまな宗派がモザイクのように入り乱れる複雑な社会だ。歴史的に迫害を受けた多くの少数派が、レバノンの山岳地帯に避難して住みついてきたからだ。いわば「生きた宗教の博物館」状態となっている。独立の際に、各宗派の間で権力を分割する協定が結ばれた。大統領はキリスト教マロン派、国会議長はイスラム教スンニー派という具合にである。その基礎になったのが、1932年の人口調査であった。 ところが、キリスト教徒が多数を占めていたころの人口統計に基づいたシステムは、段々と実情に合わなくなってくる。イスラム教徒の方が多産なので、人口増加率が高かった。中でも、南部のイスラム教シーア派の人々は、特に所得が低く、人口増加率も高かった。しかし、人口調査は1932年以降行われず、キリスト教徒優位のシステムが続いた。そして、このシステムへのイスラム教徒の不満が高まった。キリスト教徒の側も、自らの特権を脅かされるのではないかという不安を募らせていく。各宗派は、独自の武装組織を育成し自衛の構えを見せていた。 そんな危うい状況のレバノンに、1970年に乗り込んできたのがアラファト率いるPLO(パレスチナ解放機構)だった。前に触れたヨルダンでの内戦に敗れレバノンに亡命してきたPLOは、レバノンの中で独立国家のように振る舞った。イスラム教徒が多数を占めるPLOの存在は、レバノンの宗派間のバランスをさらに危うくした。そして1975年にレバノンは内戦に突入した。内戦にはシリアも介入した。その後1982年にはイスラエルがレバノンに侵攻して、レバノン情勢は泥沼化していく。