爆弾を身体に巻いて自爆…イスラエルと衝突つづくヒズボラはなぜ「強力な戦闘集団」になったのか
イランのサポートで誕生したヒズボラ
イスラエルが侵攻した理由は、PLOがレバノン南部を拠点に、イスラエルにゲリラ攻撃を仕掛けていたからだ。迷惑を被っていったのは、レバノン南部に住んでいたイスラム教シーア派の人たちである。当時シーア派は、組織化されておらず、したがって政治力がなく、人口は多くても発言権がなかった。PLOがイスラエルを攻撃すれば、その報復でレバノン南部が攻撃された。そのため、イスラエル軍がアラファトを撃つために南レバノンに侵攻すると、当初シーア派の住民たちは大歓迎をした。その後、アラファト率いるPLOはレバノンからチュニジアに亡命した。しかしPLO撤退後も、イスラエル軍はレバノン南部の占領を続けた。 シーア派の住民はPLOは嫌いだったが、イスラエルの支配下に入りたいと望んだわけではなかった。そして、その組織化をシーア派が多数派を占めるイランがサポートして、ヒズボラが創設された。 ヒズボラが世の注目を集めた最初の事件は、アメリカ軍の海兵隊宿舎の爆破だった。アラファトなどのPLOの戦士たちがチュニジアへと去った後、ベイルートの治安維持を名目にアメリカ軍海兵隊などが進駐した。1983年にヒズボラのメンバーが爆弾を満載したトラックで海兵隊の宿舎に突っ込んで自爆し、多くの米兵を殺害した。それにより海兵隊は撤退した。筆者が知る限り、イスラム教徒による歴史上最初の自爆攻撃である。 またイスラエルが占領していたレバノン南部では、ヒズボラが抵抗運動を強めた。そして2000年までの18年間にわたり戦った。爆弾を巻いて死ぬ気で戦うヒズボラの若者たちに、中東最強とされるイスラエル軍も苦戦した。そして、殉教精神だけでなく、イランの軍事顧問団による訓練と、実戦を積むことにより、ヒズボラは強力な戦闘集団となった。
イスラム世界全体の英雄となる
ヒズボラは、イスラエル軍の行動パターンを読んで戦った。たとえば、イスラエル軍のパトロール部隊を待ち伏せして包囲すれば、必ず救出部隊が送られてくる。パトロール部隊を全滅させても10人程度だが、救出部隊を待ち伏せすればその何倍も倒すことができる。ヒズボラはパトロール部隊を包囲すると同時に、救出部隊を攻撃する準備をして待ち伏せを行った。そのため、イスラエル軍は救援に行くのが危険になった。ヒズボラよりはるかに強力な兵器で武装しているイスラエルが、苦戦を強いられた。何より士気が違う。ヒズボラは自らの土地を取り返すために死をも恐れず戦う。イスラエル兵は、他人の土地を占領して、こんなところで死にたくないと思って戦う。士気が上がるはずもない。最終的には2000年に、イスラエル軍がレバノンから撤退した。 アラブ側が戦ってイスラエル軍を撤退させた例は少ない。イスラエルが建国されてから、アラブ側は負け続けていた。ヒズボラは、その憎っくきイスラエル軍を撤退に追い込んだ。そのためレバノンでは、ヒズボラが英雄となった。もちろん、レバノンにはシーア派やヒズボラが大嫌いという人は多い。それでも、対イスラエルに関しては、ヒズボラはよく戦ったとの評価である。またレバノンを越えてイスラム世界全体でヒズボラは英雄となった。 そして、このヒズボラのイスラエル軍に対する善戦は、占領下で苦しむ多くのパレスチナ人にとっても刺激となった。それが後にパレスチナ人自身による抵抗運動、インティファーダ(1987年)につながった。また、ハマスをはじめとする抵抗組織の設立につながった。そして自爆、つまり殉教攻撃という戦術がイスラム世界全体に広がった。「殉教者こそ神の友」という叫び声が広くこだまするようになった。 さらに、イスラエルが脅威を抱く「ヒズボラのミサイル」について関連記事【「兵士がいる場所まで正確に着弾…」イスラエルが警戒する「ヒズボラ」のミサイル、「真の実力」が見えてきた】で解説する。
高橋 和夫(国際政治学者・放送大学教授)