奈良美智ロングインタビュー(後編)。願い続けてきたPEACE、旅と場所づくり、アートよりももっと自由な人生を求めて
音楽や写真で共有した反戦意識
──奈良さんの人生にとって、音楽はなくてはならない存在です。反戦や平和を望む姿勢は、音楽と共鳴していますね。 若いときに音楽が好きでも、ほとんどの人は途中でぱったり聴かなくなるよね。でも、自分はいまでも、音楽がずっとそばにあり続けている。とくに影響を受けたのは、時代の空気。高校の頃までは周りで大学生が学生運動をやっていたから、そこで歌われていた反戦歌を聴いたり、サブカルチャーの雑誌を見たりした経験が、その後も忘れられないものになっていった。《No Nukes》も、当時雑誌の『写楽』に載っていた反核運動の写真のイメージが強く残っていて描いた絵だよ。その記事の切り抜きも展示している。 ──ベトナム戦争などがあった時代意識を共有するなかで、自分たちで社会を変えられるんじゃないかという気運も感じていましたか? 自分が目覚めたときは、もうそれはなかったね。学生運動がどんどん潰されて、最後に長髪を切る『いちご白書』のような映画が作られたり、中学のときにアメリカ軍がベトナムから撤退したから、ベトナム戦争に反対する反戦歌はなくなっていった。そういう音楽は60年代から70年前後がいちばん多くて、ジミヘンが爆撃音よりも大きな音を出したり、ボブ・ディランが詩で聴かせたり。当時の公民権運動のプロテストソングや反戦歌のように、みんなが純粋にひとつの方向を見ていた頃の一体感が感じられる音楽に、自分は強く惹かれるんだよ。 ──音楽や写真を通じて、世界の現実も学んでいたんですね。 ベトナム戦争で初めて一般のジャーナリストやカメラマンが戦場に行けるようになって、オンタイムで写真や映像で状況が知らされ始めたんだよね。正義の戦争だとアメリカは盛り上がっていたのに、村の子供や女性達が全員殺されるような戦争はおかしいんじゃないかって人々が気づき始めた。地獄を見てきた帰還兵達のPTSDが初めて問題視されて、彼らが公に語り、軍服姿で行進し、学生も加わって、どんどん反戦運動が大きなうねりになっていった。それを抑えきれなくなって、アメリカは撤退した。 当時、自分は小学生だったけど、アメリカが月の石を持ち帰ってきたり、大阪万博に世界中の国が集まって仲良くしているはずなのに、日本にある米軍基地からベトナムへ戦闘機が飛んでいくのはおかしいし、何が本当なんだろう?って思っていた。だからなおさら、真実を伝える報道写真や映像を見た記憶は鮮明に残っている。ヴィジュアルを信じる世代の始まりなのかな。 ──いまも各地で紛争が起こり、戦争がなくならない状況が続いていますね。 大きな力が支配する世界だと変わらないよね。でも、ベルリンの壁が崩壊する数年前に、デヴィッド・ボウイが壁の脇でライブをして、わざとスピーカーを東ベルリンに向けて「Heros」を歌ったんだよ。「壁の反対側にいる私達のすべての友人達に贈ります」ってドイツ語で言ってからね。その数年後にベルリンの壁が崩壊した。ボウイが死んだとき、ドイツ政府から感謝を込めた弔電が送られたんだよね。チェコのビロード革命も、最初の大統領がヴェルヴェット・アンダーグラウンドの曲が好きだったから、ビロード革命と呼ばれるようになった。いいことも悪いことも含めて時代のうねりが起こるから、信じていれば平和に転じる可能性はあるんじゃないかな。 ただ、いまはどんどん西側のボロが出て、世界大戦になりそうなすごく悪いほうにうねっている。俺は楽観主義者だから、人間はそこまでバカじゃないだろうって思うけど、自分は安全な場所にいて、人を駒のように使う人がいたら戦争は始まってしまうよね。天災と似ていて、忘れた頃に始まるからすごく怖いよ。 ──戦争の犠牲になるのは普通の人びとです。「No War」の部屋を《平和の祭壇》と名づけた高橋さんは、奈良さんの作品には、悲劇的な出来事で命を奪われた犠牲者達や弱い存在への眼差しが感じられるとおっしゃっています。 人形ってヒトガタじゃない? ヒトガタは人の代理だから、弔いの要素はなにかしらあると思う。 ──鎮魂の祈りのように、亡くなった人達のことを意識していたということでしょうか。 いや、それはできない。東日本大震災のようにたくさんの人が死ぬときには、身内ならともかく、一人ひとりの犠牲者を思うことは無理だし、自分が抱えることではない。それよりも、もっと前向きなことを考えて、少しでも平和という言葉を広めることに転換していかないと。