見たくなかった「帝王の落日」。ロブ・カーマンはローキックを放つと自ら倒れた
【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第27回 立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。後の爆発的なブームへとつながるこの時代、格闘技界では何が起きていたのか――。 【写真】ロブ・カーマンvsドン・中矢・ニールセン ■伝説の『K-2 GRAND PRIX'93』 2024年3月31日に亡くなった〝帝王〟ロブ・カーマン(オランダ)。1987年11月の初来日から日本では長らく全日本キックボクシング連盟を主戦場にしていたが、93年以降はその活路をK-1に求めた。K-1デビューは同年12月19日、東京・両国国技館で開催された『K-2 GRAND PRIX'93』だった。 K-1同様、世界中のチャンピオンやトップファイターを集めた8人制のワンデートーナメントだ。K-1との最大の違いは制限体重が82kg以下に設定されていたことだった。ライトヘビー級は79.3kg以下なので、主にこの階級の選手にスポットライトを当てた大会にしようとしていた。 なぜこの階級の大会を実施したかといえば、同年4月の第1回K-1に出場した選手の体重差が、最重量のトッド〝ハリウッド〟ヘイズ(アメリカ)と最軽量のチャンプア・ゲッソンリット(タイ)の間で実に38㎏もあったからだ。 第1回K-1で初来日し決勝まで進出したアーネスト・ホースト(オランダ)も当時はライトヘビー級がベストウェイトだった。同大会の準々決勝では優勝候補の一角を占めていたピーター・アーツ(オランダ)を撃破したが、その後、アーツが望むワンマッチでの再戦には難色を示していた。 カーマンにも第1回K-1への出場オファーが舞い込んでいたが、ホースト同様、適正体重はライトヘビー級だったので、首を縦に振ることはなかった。背伸びをしてヘビー級に挑戦することはあまりにもリスクが大きいと判断したのだ。 しかし、適正体重である80㎏前後の契約体重であれば問題はない。K-1同様、優勝賞金は10万ドルと高額だったことも手伝い、K-2出場の打診を受けると、カーマンは快くOKを出した。ほどなくして1回戦(準々決勝)の相手はチャンプアに決まった。チャンプアとは過去にパリ、アムステルダム、バンコクと世界を股にかけて激突。1勝(1KO)2敗と負け越していたので、ストーリー性を考えるとこれ以上ない相手だった。 半年前に開催されたK-1での活躍の印象が強く残っていたホーストを優勝候補に推す声もあったが、それ以上に過去の実績でカーマンの優勝を推す声のほうが多かった。何を隠そう、筆者もそのひとりだった。過去にカーマンはホーストと地元アムステルダムで2度戦い、いずれも勝利を収めていることもその予想を強固なものにしていた。