見たくなかった「帝王の落日」。ロブ・カーマンはローキックを放つと自ら倒れた
カーマンとホーストは別ブロックにいたので、「決勝で3度目の対決が実現するのか?」と勝手に妄想を膨らませていたが、現実はそう甘くなかった。初戦のチャンプア戦で、2ラウンドに左ストレートを食らってダウンを喫したマイナスポイントが響き、判定負けしたのだ。 1ラウンドからサウスポーに頻繁にスイッチするなど、カーマンはチャンプア必殺の「左」をもらわないように策を講じていた。しかし1R中盤、相手が放ったローをカットした際、バキッという骨折したときに発せられるような破壊音とともに右スネの古傷──手術した縫合部分がパックリと開いてしまうと全てが狂ってしまった。 ときおり焦りの色を見せ、冷静さを欠いた打ち合いに行ったのも、全てはそのせいだったかもしれない。それでも、ケガをしていることが嘘のように猛反撃に出たのはさすがとしかいいようがなかった。判定の結果を待つカーマンからは哀愁すら漂っていた。こんな帝王の姿を見るのは初めてだった。 ■まさかの戦意喪失 カーマンが再びK-1の舞台に上がってきたのは13ヵ月後、パリで開催された『K-2フランスGP'95 トーナメント・オブ・$100000』だった。 当初は85kg以下のワンデートーナメントで、ホーストも出場すると聞いていたが、決戦直前になると、契約体重は90kgでホーストは出ないという話が伝わってきた。前回のことがあるので、カーマンには大きな期待を寄せていなかったが、決勝では地元フランスのジェローム・トゥルカンを4R左ハイキックで葬って優勝した。 トーナメントのハイライトは準決勝で実現したタシス〝トスカ〟ペトリディス(オーストラリア)戦だろう。僅差の判定でカーマンが薄氷の勝利を得たが、試合の主導権はトスカが握っており、そのジャッジに場内は大ブーイングすら沸き起こったという。 ヨーロッパでは今でも「?」を付けざるをえない判定やレフェリングが散見される。このとき、大会主催者は地元のトゥルカンより、以前から興行の柱として起用していたカーマンを勝たせたかったのか。 おまけにこのトスカ戦でカーマンは右眉をカット。流血戦を余儀なくされたが、決勝ではローキックでじわじわとダメージを蓄積させ、フィニッシュのハイキックへとつなげた。振り返ってみれば、晩年のカーマンにとってこの日が最大のクライマックスだった。この大会を最後にK-2絡みのトーナメントが行なわれることはなかった。 K-1でのラストファイトは96年12月8日、名古屋レインボーホールで組まれた新進気鋭のヘビー級戦士であるジャン・クロード・リビエール(アメリカ)戦だった。