柴咲コウ×黒沢清監督。映画『蛇の道』インタビュー
──小夜子はハードボイルドで、あえて言えばかっこいい女性キャラクターだと思いました。きびきびとした動作やまなざしに迷いがない一方で、アルベールが小夜子の手に触れるシーンが2度あり、その時の反応に珍しく感情の揺れが現れているように感じたのですが、その辺りのバランスはどう考えていましたか? 黒沢:そんなに深く考えているわけではないんですけど、小夜子はさっきからおっしゃっているように獰猛というか、ペットボトルのキャップを捨てるにしても、バシン!と結構激しく捨てたりですね、素早くキレがいい。ですが、アルベールに手を握られた時だけは、どういう心境かはわかりませんが、“ヌルッ”、とかわしてほしいなという。現場で実際に「ヌルッ」と伝えたかどうかは覚えていませんが、いつものビビッ、ていう速さじゃなくて。ためらいなのか、逡巡なのか、嫌悪なのか、何かはわからないんですけど。手の動きって結構難しいと思うんですが、柴咲さんはうまいこと、ヌルッとかわしてくださいました。 柴咲:繊細な動きなんだけど、アルベールに対して遮断している感じがあるシーンで。たしか現場で監督からは「気持ち悪い!」みたいにやってほしいと伝えていただいた気がします。物語の前半では小夜子の感情みたいなものが出ることは少なかったと思うんですけど、特に後半のその小夜子の手の動きについては、「いよいよそこまでやっていいんだ」「その感情を出していいんだ」って。ずっとミステリアスなままの役にも惹かれるんですけど、一方で演じれば演じるほどに、その人の中でうごめく何かがどんどん増幅してくるような感じもあるので、それをちょっとでも出せると快感というか。後半になるにつれ、そういうシーンが増えていったのが楽しかったです。
──そういった情緒的な部分は、哀川翔さんと香川照之さんが共演したオリジナル版の『蛇の道』(98)にはなかった要素ですよね? 黒沢:まったくないです。いや、その辺りは本当に今回リメイクをやって面白かったところ。もともとは男二人の話なので、良くも悪くもぶっきらぼうな関係性だったんです。今回も物語の構造上、二人の関係性は基本的に医者と患者ですから、ドライなんですが、性別を変えると複雑さが増すというか。小夜子側からもアルベール側からも、奇妙に複雑で歪んだ、でも押し殺された感情が時々垣間見えますね。僕自身の思い込みもあると思うんですけど、男女だとつい手を触っちゃったりする。あの複雑さはオリジナルにはない要素ですね。撮っていて楽しかったです。 ──監督に以前、惹かれる女性キャラクターを伺った際、『エイリアン』(79)の主人公リプリーと答えてくださいました。リプリーはようやくエイリアンから逃れ、宇宙船から脱出しようという時になって、愛猫を置いてきたのに気づき、あえて引き返す。タフな人物ですが、そのシーンでのみ女性性が漂うさまが素晴らしくて感動したとか。今回の作品を観た時に、なんとなくその言葉を思い出しました。 黒沢:なるほど、はい。 ──その際にも「主人公の性別にかかわらず、分け隔てなく映画を作ってきたつもり」と話してくださいましたが、それを大前提とした上で、今キャラクターの性差にはどういう意味があると思いますか? 黒沢:それはすみません、いまだに僕もよく理解できていない。大きな謎ですね。現実世界においては女性と男性でなんの違いもないはずですし、映画を撮る時や脚本を書く時も同じように、頭では極力同じようにと思っているんです。でも実際そこに女優、男優っていう風に立たれると、衣裳とかメイクとか、いろんな要素が加わるからでしょうか。演出的にも、もちろん男女の関係性によってドラマが展開する場合もあると思いますけど、そうでない時は同じはずなんですけどね。これは自分が男であるからこそのよろしくない思い込みなのかもしれませんけど、女性の方が心に何か秘めている感じがします。 ──キャラクターとして? 黒沢:はい、キャラクターとして。それは僕が撮る映画に、ハードという言い方が当てはまるのか、ある種男性的とされてきたシチュエーションが多いからなのかもしれません。たとえば、人を監禁するとか。そこで男女を分けるのも変ですけど、あえて言えばそういう男性的な環境に、男はもう剥き出しでそこにいるけど、女性の場合、本質はどこか別のところにあり、通常は隠されているけど、ふとそれが垣間見えたりする。『エイリアン』のリプリーがまったくパワフルに活躍した末、猫を忘れてきちゃったから戻るというのも、まさにそれだと思うんです。小夜子にも、男たちと同じような立ち振る舞いをしているはずですが、隠された何かが見える瞬間がある。手を引っ込める仕草なのかどうかはわかりませんけど、とにかくそれが垣間見えたらば、さぞや魅力的だろうとつい思ってしまうんでしょうね。男だからなのかもしれないけど。