作家は真新しい語り口に揺さぶられ、詩壇は概してこの人気者に冷たかった…谷川俊太郎さん評伝
詩、小説、歌詞、手紙、広告……。さまざまな日本語を、素直な気持ちを注ぎ込める器(うつわ)に変えていったのは、この詩人だ。 【写真】自宅の庭でタンポポの綿毛を吹く谷川俊太郎さん(1991年4月)
「空をこえてラララ星のかなた」の鉄腕アトムは60年経(た)っても愛唱され、「かっぱかっぱらった」は日本語ラップに先駆けた。生活に根ざす言葉で、恋人や家族に語りかけるように、今この瞬間に生きることのすべてを、ひたすら詩に込めた。だから東日本大震災直後、人々が思い思いにSNSで共有し、朗誦(ろうしょう)したのも、谷川俊太郎の「生きる」(1971年)だった。
生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ
(「生きる」より)
誰もが書けそうで決して書けない、まさに天賦の詩情(ポエジー)にまず驚いたのは哲学者の父、谷川徹三と詩人の三好達治。たちまち時代の寵児(ちょうじ)となって音楽家の武満徹、劇作家の寺山修司とラジオドラマで協働し、市川崑監督に請われ東京五輪の撮影隊にも参加する。
小説家も真新しい語り口に揺さぶられた。「鳥羽 1」の「本当の事を云(い)おうか」は、大江健三郎の代表作「万延元年のフットボール」の核心を成す一行として引用され、75年の詩集「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」と初期の村上春樹作品の雰囲気は、同じ部屋のように通じ合っている。
詩壇は概してこの人気者に冷たかったが、たとえば父の死を機とした「世間知ラズ」(93年)や、詩を詩で論じた「詩に就(つ)いて」(2015年)ほど心を打つ見事な詩集が、いったい何冊戦後に現れたか。近現代詩の本流を「北原白秋、萩原朔太郎、谷川俊太郎」と最初に見抜いたのは詩人の中村稔・日本近代文学館名誉館長(97)。すでに谷川の詩は英語圏や中国で、芭蕉と共に最も知られる。
世界や社会、こころの成り立ちを易しく説く「とき」(太田大八・絵)や「へいわとせんそう」(Noritake・絵)など多くの絵本を制作した。詩人の大岡信らとの共編「にほんご」は、不朽の教科書として版を重ねる。