黒柳徹子 42年ぶりにトットちゃんを書いたわけ「戦争中は1日に大豆15粒、栄養失調だったことも。子ども3人を育てた母親の奮闘に感謝」
母は北海道のお医者さんの娘で、お嬢様育ち。東洋音楽学校(現・東京音楽大学)の声楽科に通っていたころ、ヴァイオリニストだった父と出会って結婚しました。母は、父からものすごく大事にされてました。 平和な時代、父と出かけるときはすっごくおしゃれをして。父は新交響楽団(現・NHK交響楽団)のコンサートマスターをしていて、母は父が出るコンサートがあると、それはきれいにして出かけるの。 その母が、疎開先ではモンペを穿いて大きな籠を背負って、たくましくなっていってね。本当にびっくりしました。 考えてみたら、あのころ、母は30代なんですね。3人の子どもを空襲から逃れさせ、食べさせることまで、すべて一人でやらなくてはいけなかった。 父は敗戦後はずっとシベリアの捕虜収容所に抑留されていました。帰ってきたのは終戦から4年後の暮れです。その間、母は女手ひとつで3人の子どもを育てながら、働きに働いて行商で貯めたお金で東京の焼け落ちた家を再建しました。本当にすごいなぁと思いますし、母には感謝しています。 母は95歳で亡くなりましたが、死ぬ日までいつも通り普通に話していました。 亡くなるちょっと前、そういえば私はこんなにたくさんの方にインタビューしているのに、母にインタビューしていなかったことに気づいて。「ママが100歳になったらインタビューしていい?」と聞いたら、「どうせするんだったら、95の今、したほうがいいわよ」と言われて、いろいろなことを聞いたんです。 私が生まれる前のことや、知らなかったことを全部話してくれました。あのとき聞いておいてよかったな、と思います。
◆テレビは平和に寄与できる 戦後、日本でのテレビ放送スタートと同時に、NHKの専属俳優としてテレビで仕事を始めました。NHKの入社試験の経緯は『続 窓ぎわのトットちゃん』にも書いていますが、思い出すと自分でもあきれるくらい失敗の連続で。よくもまぁ、採用してくれたものだと思います。入社したのは1953年ですから──えぇ~っ、もう70年!? びっくりしますよね。 ここまで長く続いた理由のひとつに、かつてアメリカのNBCのプロデューサーだったテッド・アグレッティーさんの存在があります。アグレッティーさんはNHKがテレビ放送を始めるにあたり、技術的なことも含めて、さまざまなアドバイスをしてくれた方。 放送開始に先立って、私たちNHKの関係者を前にした講演で、「テレビというのは、今世紀最大のメディアであり、そのうち戦争さえも家のテレビで観られる時代が来るだろう。テレビには力がある。その国がよくなるも悪くなるもテレビにかかっている。そして私は、テレビは永久の平和に寄与できると信じている」とおっしゃったんです。 その言葉に、心から感動しましたね。もし自分がテレビに出ることによって、平和の手助けができるんだとしたら、これほど素敵なことはないと思ったんです。 ですから76年に『徹子の部屋』を始めてからは、毎年、終戦記念日が近づくと、さまざまなゲストの方に戦争体験を語っていただく企画を続けてきました。 (構成=篠藤ゆり)
黒柳徹子