黒柳徹子 42年ぶりにトットちゃんを書いたわけ「戦争中は1日に大豆15粒、栄養失調だったことも。子ども3人を育てた母親の奮闘に感謝」
国内で800万部、海外では2500万部のベストセラーとなり、多くの人々に愛される物語。その続篇を上梓した黒柳徹子さんは長年、ユニセフの親善大使として世界中の戦争や飢餓、病気などで苦しむ子どもたちを支える活動を続けています。徹子さんが変わらず抱く思いとは(構成=篠藤ゆり) 【写真】黒柳徹子さんの学生時代。疎開先の青森で親戚の子のおさがりのセーラー服を着ている * * * * * * * ◆戦争のことを書こうと決心して 42年前に出版された『窓ぎわのトットちゃん』では、トモエ学園に通っていた小学校時代のことを書きましたが、青森へ疎開するところで終わっています。 どう考えてもあれよりおもしろいものは書けないと思っていたんですけど、考えてみたら、父の出征や疎開先での経験とか、戦争中のことはぜんぜん書いていなかったんですね。 やっぱり戦争のこと、敗戦後の経験、そしてもう少し成長したトットのことを知っていただこうと思って、『続 窓ぎわのトットちゃん』を書きました。 戦争が始まってしばらくたつと、子ども心に、世の中がどんどん変わっていくのを感じました。何かを買うとき、必ず並ばなきゃいけないとか。そのうち、並んでも何しても、食料もモノも手に入らなくなる時代が来て。食べられるものが、1日に大豆15粒だけだった日々もありました。 戦争中のことを書いている途中、いろいろなことを思い出し、本当にイヤな時代だったとつくづく思いました。今も心にずっと棘みたいに刺さっているのが、小学生のころ、駅前で出征兵士を見送る人たちを見かけて、一緒になって日の丸の小旗を振って「バンザ~イ!」と大声をあげたこと。 小旗と一緒にスルメを1切れもらえたので、お腹がすいていた私はスルメ欲しさに思わず小旗を受け取ったんです。その後も何度かバンザイをしに駅前に行ったことを、今でも後悔しています。それを私は自分の「戦争責任」だと思って今日まで生きてきたのです。
◆疎開先で母の奮闘ぶりにびっくり 1944(昭和19)年に父が出征。45年3月には東京大空襲で遠くの空が真っ赤に染まるのを見て、母は私たち3人の子どもを連れて疎開することを決めました。 以前リンゴを送ってくださったことのある青森の農家の方を頼って、突然押し掛けるような形だったけれど、受け入れてくださってね。農園のリンゴの作業小屋に住まわせてもらうようになりました。 疎開先での母の奮闘ぶりには、本当に驚きました。当たって砕けろ精神というのかしらね。最初は農協みたいなところで働いていたけれど、私が栄養失調で身体じゅうにおできができたので、タンパク質をとらせようと思ったみたい。 野菜を籠いっぱいに詰めて背負って、列車を乗り継いで八戸港に行ってね。野菜とお魚を物々交換して帰ってきて、煮魚をつくってくれるんです。私のおできはあっという間に治りました。 普段の食事は野菜入りのすいとん汁と蒸したじゃがいも。東京にいたころの大豆だけよりは恵まれていたけれど、卵や鶏肉を口にしたことはなかったです。 戦後もしばらく青森にいたんですけど、母は東京でいろいろなものを仕入れて青森で売る、いわゆる「かつぎ屋」といわれる行商をやるようになって。そのうち、音楽学校の声楽科で鍛えた喉を活かして、地元の結婚式や宴会に呼ばれて歌って、引き出物をもらってきたり。引き出物の甘いお菓子をもらえるとうれしかったわね。