1300年にわたって守られてきた至宝を後世に伝える「模造」の技…正倉院もうひとつの宝物・上
第76回正倉院展が10月26日、奈良市の奈良国立博物館で開幕した。今回は「黄金瑠璃鈿背十二稜鏡(おうごんるりでんはいのじゅうにりょうきょう)」など57件が出品され、「模造宝物」が過去最多の7点含まれる。模造は、1300年にわたって守られてきた宝物の姿や技術を後世に伝えるために重要な役割を果たしてきた。「宝物をもうひとつ作る」。その信念に貫かれた模造の世界に迫る。
元日の能登半島を襲った最大震度7の地震。石川県輪島市の朝市通りは大規模な火災に見舞われ、約5万平方メートルが焼失した。
輪島塗職人の塩多淳次(72)は、完全に焼け落ちた木造2階建ての自宅兼工房を前にぼう然と立ち尽くした。ここは、父で人間国宝の輪島塗職人、塩多慶四郎(2006年に80歳で死去)が、正倉院宝物の模造に情熱を注いだ場所だった。
慶四郎は15歳で修業を始め、木材から器を削り出す「木地」、漆を塗り重ねる「塗り」の技を磨いた。分業制の輪島塗において両方で高い技術を習得。蒔絵(まきえ)や沈金での装飾がなくても「木地」と「塗り」だけで美しいと受け入れられる作品を追い求めた。
正倉院事務所は技術を見込み、1988年に慶四郎に模造を依頼した。今回の正倉院展に実物が出品される「漆彩絵花形皿(うるしさいえのはながたざら)」だ。
宝物の模造は、「偽物」「まがいもの」といったイメージとは一線を画する。正倉院に納められている天平時代の宝物は、時を経る中で劣化が避けられない運命にある。材料、構造、技法を解明し、忠実に再現することで、往時の姿を映し出した「もうひとつの宝物」として展示に堪えうるものになる。天災などに備える危機管理の側面もある。
模造制作の歴史は明治時代にまで遡る。特にこの半世紀は「再現模造」と銘打って、正倉院事務所が主導して実施しており、約50件の実績がある。
慶四郎は、模造の重責とどう向き合ったのか。
依頼を受けると、慶四郎は約300キロ離れた正倉院事務所に足しげく通った。いつも2~3日の泊まり込み。朝から夕方まで実物をみっちり観察し、ミリ単位の違いをチェックしては注意点を細かくメモした。