公共政策において民意はどこまで尊重されるべきなのか――多数の意見と少数の意見
喫煙者を排除する圧力
喫煙者を排除しようとする圧力にも、私は「お上頼み」につながるものを感じる。たばこは有害物質だから、まわりに煙を吸いたくない人がいたら吸わせてはならない。たばこに厳しい目が向けられるのは当然だし、徹底した分煙が必要だ。しかし、今進んでいるのは分煙ではなく喫煙スペースの撤去であり、たばこの排除であるようだ。ただ、喫煙の問題でねじれているのは、喫煙者が少数派である一方、たばこ会社には社会への一定の影響力があり、単に少数派への圧力とは言えない点だろう。 私は公共政策学の観点からEBPM(エビデンスに基づく政策形成)を研究している。エビデンスに基づけば、健康に有害なたばこは吸わないほうがいい。しかし、人間はエビデンスに基づくために生きているわけではない。エビデンスはあくまでも人間が生きていくさまざまな要件のうちの一つにすぎない。そこから外れるものをあえて選ぶのも「人間らしさ」だろう。 身体に悪いからたばこをやめろと言うのであれば、アルコールもやめたほうがいいし、長時間のスマホゲームもやめたほうがいい。ほかにもやめたほうがいいことは無数にある。 しかし、アルコール依存症の人がたくさんいるのにお酒が禁止されないのは、結局は政治力の問題だからだろう。身体によい、悪いというのは建前で、政治力がある分野は大目に見られ、政治力がなければどんどんなくなっていくだけの話なのかもしれない。 そう考えれば、政治も政策も所詮は力関係で決まり、理念や理想を語る必要はないのではないかという、ある種の諦観に囚われるかもしれない。だがそういった面があることも踏まえ、私たちがどのような社会を望むのかを、もう少し真剣に考えていくことが民主主義の要件の一つではないか。
「グレー」を活かす社会
現代の日本は、何であれ白黒をはっきりつけようとする圧力が強くなってきて、しばらく前までは「グレー」であったことも許されなくなってきた。かつては見過ごされていたさまざまなハラスメントが問題視され、なあなあになっていた就業規則がきちんと守られるようになっているのはよいことだ。その影響もあって、社会が喫煙にも厳しくなってきているのだろう。 だが、グレーな部分があったから社会がうまく回っていく面もあったのではないか。白黒をはっきりつけすぎると、「敵か、味方か」しかなくなってくる。そのような社会はあまりに息苦しい。私にはいわゆる右派の友人も左派の友人もいるが、考え方や問題意識は違っていながらも、「そんなものだろう」と思いながら付き合い、何度でも話し合ってきた。民意を集約するときもそうだが、自分では理解の及ばない選好を有する他者を尊重し、共存の道を探らなければならない。そのための知恵を私たちの社会は培ってきたはずである。 人にはいろいろな側面があり、切り口によっては誰もが多数派にもなるし、少数派にもなりえる。だからといって、例えばジェンダーマイノリティの苦しみが相対的なものだというわけでは決してない。まずは自分を見つめ直すこと、そして、相手に対して想像力を働かせて共同体のなかでともに生きることを考えていく。これが私たちの社会を維持するために必要な営為だと思う。 (『中央公論』2024年11月号より) 構成:戸矢晃一 杉谷和哉(岩手県立大学講師) 〔すぎたにかずや〕 1990年大阪府生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程研究指導認定退学。博士(人間・環境学)。専門は公共政策学。著書に『政策にエビデンスは必要なのか』『日本の政策はなぜ機能しないのか?』など。