公共政策において民意はどこまで尊重されるべきなのか――多数の意見と少数の意見
民意による政策の近視眼性
民意と政策には別の問題もある。本当にその民意に沿って政策を進めていいのかということだ。古代ギリシャのプラトンの時代から言われている、「民主主義の近視眼性」である。有権者は明日のことしか考えないし、有権者に選ばれる政治家も明日のことしか考えない。自分たちの国のことしか考えない政治体制の民意に従っていると、グローバルな問題は視野から外れてしまう。そのため、中長期的に本当に必要な政策が行われない。 例えば、地球温暖化対策は中長期的なビジョンを持ち、エビデンスに基づいて実施されなければならないはずだが、現実には、脱炭素社会に向かって着実に政策が進んでいるとは言いがたい面がある。 そこで「将来世代の利益」という考え方がある。まだ生まれていない人たちの意見や利益を選挙で集約することはできない。だからといって、将来世代のことを考えずに環境汚染や地球温暖化を放置することもできない。先般、未成年者にも投票権を付与し、実際の投票は保護者が代理で行うという提案が話題になったが、実際に法哲学や政治理論の分野ではそうした研究の蓄積が進んでいる。 ただ、将来世代の利益を誰がどのように判定するかという問いは残る。それを口実に無理な政策を押し通そうとする政治家は現に存在している。ウクライナに侵攻を続けるロシアのプーチン大統領は、「将来の利益のためにウクライナを『解放』しているのだ」と主張する。このレトリックが嘘であることは明らかだろう。 将来世代だけでなく、ジェンダーマイノリティやエスニックマイノリティといった少数派や「声の小さな人たち」の利益を勘案することも重要な課題である。 そこで、地球温暖化による海面上昇で自分たちが住んでいる島が沈んでしまうというような、それぞれの問題について切実な人々の声を採用すべきだという考え方がある。「当事者主権」に近い考え方だ。もっとも、これに対しては、当事者だけでなく専門家の意見も聞かないと有用な政策が作られないとの指摘もある。ただ、当事者の存在や意見が無視されてきた事実は考え直さなければならないし、近年は地方議会にLGBTQの議員も出るようになっていて、当事者が議会にいることの重要性は言うまでもない。 ただし、当事者でなければ、あるいは、何がしかの資格がなければその問題について発言してはいけないとなると、これも歪(いびつ)になってしまう。また、一口に当事者と言っても当事者も多様なので、一人の声を反映させればみなが納得する政策ができるのかという問題もある。マイノリティの人が議会に一人いたとしても、その一人にその属性の人たち全体の利害や意見を代表させるのは無理があるだろう。 そこに民意を表出することの厄介さ、難しさがある。少数派や将来の利益を勘案するときに、十把(じっぱ)一絡げに同じ方法で進めることはできない。テーマごとに、どういったかたちで民意を集約するのが適切なのかを柔軟に考える必要がある。結局は「バランス」を取るしかないのだろうが、それを保つのは、口で言うほど簡単ではない。