公共政策において民意はどこまで尊重されるべきなのか――多数の意見と少数の意見
独裁政治も民意に気を遣う
民意は民主主義社会に特有のものではなく、独裁政治と言われている社会にもある。最近の政治学では、独裁的な権威主義体制の国こそ民意を気にしているという研究がある。例えば、中国共産党は強権的な統治を進める一方、景気の動向にはかなり気を遣って政治をしている。民意に離反されたら自分たちの政権はもたない、ということがよくわかっているからだ。 日本でも、「政府は民意を無視している」という批判がよくあるが、例えば岸田前首相も定額減税を実施するなど、実際には増税に反発する民意をかなり気にしていた。にもかかわらず、民意が離反していく。多数派が得をする政策を実行しても、必ずしも支持率が高くなるわけでもない。そこに政治のおもしろさと社会の複雑さがあるのだと思う。 また、選挙で多数票を取った、つまり民意を得たからといって、何をやってもいいのかという問題がある。民意と多数決は同じではない。多数派になったからこそ、少数派に配慮する義務が生じるはずだ。多数派には多数派の責任がある。近年は「選挙に勝ったらこっちのものだ」という開き直りが幅をきかせているが、少数派の権利が、多数派が許容している範囲内のものになってしまうのは明らかな間違いだ。勝者総取り型の民主主義からどうやって脱却していくのか。これは、今後議論されていくべきポイントの一つだろう。 そこで重要になってくるのが教育だが、ここでは学校教育というより、むしろ社会に出ている大人がどう学ぶかをきちんと考えたほうがいい。日本は社会人教育がまだまだ弱いと言われているが、民主主義をより賢く、よりよく、思慮に富んだかたちで運営していくためには、多くの人々の学びが欠かせない。
民主主義を支える自治の経験
民意をうまく集約して民主主義を進めるには、もう一つ、自治の経験が大事だと私は考えている。 私は学生時代に、京都大学の吉田寮の自治に関わっていた。学生だけで自分たちの寮生活を、責任をもって運営するのである。100人を超す寮生全員が自治に熱心だというわけではないが、意見が違う相手を説得し、何らかの事件やトラブルを、完璧ではないにせよ、どうにか自分たちで解決する経験が自治寮で蓄積されてきたのも事実である。 なかには、「原理原則を貫いて絶対に妥協しない」という人もいれば、「原理原則はどうでもいい、そのときに最善の道を選択したい」という人もいる。何時間話し合ってもどうにもならないときには、互いに折り合いをつけるしかない。手間と時間のかかる面倒なプロセスだが、そういった経験を積み重ねていくと、他人と一緒に生きていくことの意味が何となくわかってくる。 かつては労働組合や町内会など、社会のなかにそうした意思決定に加わる経験をする場があった。今はその機会がどんどん減ってきているように思える。その裏返しで、自分たちで解決するのではなく、より権力や権威がありそうなところに頼る傾向が強まっていないだろうか。電車でトラブルがあったら駅員に、近所で何かあれば警察に連絡するというように、身近なことなのにまるで他人事のように対処する。権力や権威にすべての問題解決を委ねる、「お上頼み」の市民のなかから、強い民主主義が生まれるだろうか。 新型コロナの流行が終熄しつつあった時期に、マスクの着用を個人の判断に委ねることになったが、「政府が決めてくれないと困る」という反応も少なくなかった。これも自分で考え、自分で決めることを放棄し、外部に判断を任せてしまうことにつながっていたのではないだろうか。 こうしたときにも処方箋として学校教育の大切さが言われがちだが、学校や教師に任せようとの発想にも、「お上頼み」の姿勢が透けて見える。そうではなく、今、隣にいる人とともに解決しながら学んでいく姿勢こそが必要だ。そうした開かれた精神を多くの人が持つことが、民主主義の錬磨につながるだろう。