なぜここに?地図にない、横浜「トロッコ廃線跡」 相模原と野毛を結ぶ、日本初の近代水道に貢献
1872年にわが国初の鉄道が開通して以来、これまで多くの路線が誕生したが、同時に多くの路線が姿を消した。 【写真を見る】なぜここにトロッコが?地図に載らない横浜の「廃線跡」 かつての鉄道を偲ぼうと、古地図を片手に廃線跡を探訪する人も多く、「今ここに鉄道が残っていればなあ~」と感傷に浸ることもあるだろう。 ■なぜこんなところにトロッコが? しかし、世の中には地図に載らなかった廃線もある。神奈川県の相模原市と横浜市の野毛を結ぶ道路には、「水道みち トロッコ」の標識が26カ所も設置され、かつてここにトロッコ軌道が存在していたことを伝えている。
「なぜ、こんなところにトロッコが?」と思われる人もいるだろう。まずは、ここに軌道が敷設されたことから説明しよう。 1859年、幕府は横浜に現在の税関を開設し、横浜村に外国人居留区を設けた。横浜村は東海道から離れた小さな村だったが、外国人居留区ができると、商売を求めて多くの人が住み着くようになった。人々が集まると多くの水が必要となるが、井戸を掘っても埋立地のため海水が混じっており、飲み水に適さなかった。そのため、郊外から水を運んで売り歩く、水屋という商売も現れた。
当時の水道は河川や湧水、堀などから木製の桶で水を井戸に流し込んでいたため、ろ過する機能もなく、衛生面で問題があった。そこで、お雇い外国人である英国人技師ヘンリー・スペンサー・パーマーの指導の下、相模川と道志川の合流点となる三井(現在の相模原市緑区三井)を用水取入所とし、横浜市の野毛山浄水場までの約44kmを鉄の導水管で水を運ぶ、日本初の近代水道が計画された。 ■トロッコは初めて見る「鉄道」? 工事は1885年に開始されたが、相当な重さのある直径460mmの鋳鉄製導水管や資材をどのようにして運ぶかが問題となった。当然トラックなどない時代。動力は牛や馬、人力となるが、未舗装の道路を馬車で運ぶのは難しかった。そこで、2フィート(約61cm)幅のレールを敷設し、トロッコにより運搬することとし、動力には牛や馬が使用された。