遠藤周作『沈黙』の舞台、そして潜伏キリシタンの足跡を訪ねて 天正遣欧少年使節の謎に迫る―千々石ミゲルは本当に「信仰」を捨てたのか【前編】
天野 久樹(ニッポンドットコム)
16世紀後半の戦国時代、長崎から船でヨーロッパにたどり着き、ローマ教皇に謁見(えっけん)した4人の“少年キリシタン”がいた。いわゆる「天正遣欧少年使節」である。彼らの偉業は、やがて禁教という歴史の波にのみ込まれるが、中でも数奇な運命をたどったのが千々石(ちぢわ)ミゲルだ。帰国後、4人の中でただひとり、棄教したといわれるミゲル。これは、彼の墓石を探し当て、20年の歳月をかけて真実の解明に挑んだ男たちの物語である。
命懸けでローマを目指した少年大使たち
1582年2月、1隻の南蛮船が長崎港を出港した。乗り込んでいたのは4人の少年とカトリック男子修道会「イエズス会」の巡察師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノら。日本初のヨーロッパ訪問団「天正遣欧少年使節」である。 4人の少年の名は、伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン。有馬(長崎県南島原市)のセミナリヨ(神学校)でキリスト教をはじめ、ラテン語、地理学、天文学、数学、西洋音楽などを学んだ俊英たち。しかも、いずれも13~14歳の若さ。彼らのプロフィールを簡単に紹介する。 伊東マンショ(正使) 1569年頃、日向(宮崎県)国主・伊東義祐(よしすけ)の孫として生まれる。8歳の時、島津家との勢力争いに敗れた伊東家が、キリシタン大名・大友宗麟が治める豊後(大分県)に逃れた際、キリスト教に出会う。宗鱗の遠縁にあたるということで、遣欧使節では宗鱗の名代に選ばれた。 千々石ミゲル(正使) 1569年頃、キリシタン大名・大村純忠の弟である肥前(長崎県)・釜蓋(かまぶた)城主、千々石直員(なおかず)の子として生まれる。千々石氏は龍造寺氏との戦いに敗れ、父と兄の死後、4歳の時に乳母と共に大村に逃れて洗礼を受け、有馬セミナリヨの第1期生となる。 原マルチノ(副使) 日本国内に彼の出自を示す史料は残されていない。イタリアに残る「ボローニャ元老院日記」の中に、「マルチノはハサミ生まれ、ナカヅカサの子」と記録されており、大村純忠の領地である波佐見の名士・原中務(なかつかさ)の子とみられる。生年は1569年頃。4人の中で一番の秀才とされる。 中浦ジュリアン(副使) イエズス会ローマ文書館などに残る史料によると、肥前国中浦城(現・長崎県西海市)の城主・小佐々兵部純吉の息子の甚吾とされる。生年は1568年頃。父親が大村純忠軍を助けて戦死したのが縁で、純忠の息子の小姓として取り立てられた。