遠藤周作『沈黙』の舞台、そして潜伏キリシタンの足跡を訪ねて 天正遣欧少年使節の謎に迫る―千々石ミゲルは本当に「信仰」を捨てたのか【前編】
何度も大しけにあったり熱病や赤痢にかかったりするなど、航海は困難を極めた。一行が南アフリカの喜望峰回りでポルトガルのリスボンに到着したのは、1584年8月10日、出発から実に2年半が経っていた。
「文明人化された」日本人をアピール
ローマ教皇庁などに宛てた書簡には、4人はキリシタン大名である大友宗麟、有馬晴信、大村純忠の名代とされていた。だが実際には、少年遣欧使節はヴァリニャーノが自ら企画・演出したものとみられる。 ヴァリニャーノは、使節派遣の目的として以下の2点を挙げている。 第1に、ヨーロッパの人たちに「文明人化された」日本人の姿を見せることで、イエズス会の布教の成果をアピールし、ローマ教皇とスペイン・ポルトガル両国王に日本での布教活動へのさらなる援助を求めること。 第2に、少年たちにヨーロッパのキリスト教世界の偉大さを肌で感じさせ、帰国後、日本人による布教を進める土台作りとすること。 一般の西欧人にとって日本は「地の果ての国」。使節団を迎える人たちの中には、4人を珍奇な動物でも見るかのような者もいた。イメージダウンにつながるような失態は絶対に許されない。 4人は、こうしたヴァリニャーノの期待に応え、見事に親善大使の重責を果たす。 当時、「太陽の沈まぬ国」とうたわれたスペインを統治していたのはフェリペ2世。ポルトガル国王も兼ね、ローマ教皇に匹敵する力を保持していた彼は、マドリードで謁見した少年たちの毅然かつ知性あるふるまいに感動。旅が滞りなく進むよう、使節が向かう都市の市長や行政長官らに書簡を送り、彼らを歓待し、旅の資金を提供するよう指示したという。 その後、一行はローマに入り、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂で教皇グレゴリウス13世との謁見に臨む。少年たちは枢機卿会議の場で国王使節並みのもてなしを受けた。 バチカン図書館に1枚の壁画がある。グレゴリウス13世の急逝後、新教皇となったシクストゥス5世の即位パレードを描いた絵の中に、晴れやかな笑顔を振りまきながら馬にまたがり、さっそうと行進する4少年が描かれている。