「⽯ころ」だった私が、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』に窮地を救われた理由。“悪夢のような映画”が気づかせたこと(石野理子)
ミュージカルの海で泳ぐ主人公・セルマ
この映画は、ミュージカル映画としても知られていますが、一般的な作品とは異なり、ミュージカル場⾯が主⼈公の空想で展開される造りになっています。そうしたミュージカル部分とそうでない⽇常のコントラストにより、私には現実の棘(とげ)がより尖って刺さってきました。 何より、ビョーク演じるセルマの擦れていないたくましい⽣き様、⼤切なものを命と引き換えにでも守り抜く信念の強さからは潔さが感じられ、映画が観終わるころにはそんな彼女に完全に魅了されていました。 セルマはミュージカルを愛していて、ミュージカルは彼⼥の⼈⽣を染めていましたが、それは彼⼥の空想世界でのみ⾏われているため、⼀⾒すると現実を美化して、逃避しているだけに⾒えるかもしれません。けれど、彼⼥はそこに⽣き甲斐を⾒つけたんだと思います。それを観た、乾燥⾷品くらい⼼⾝が乾燥し切っていた当時の私は、ミュージカルの海で泳ぐように⾃由に歌い踊るセルマが羨ましく見えていました。好きなことにこれほどまで没⼊している彼⼥が。 また、劇中のセルマと空想好きだった過去の私が共鳴していると感じる場面がありました。セルマには、職場に仲のいい同僚がいて、家には愛する息⼦がいますが、彼女なりに抱えている不安や孤独があったはずです。そのさまざまな感情が空想となり、彼⼥の愛するミュージカルとなり、⼼を少しでも潤していたのでしょう。 私も⼩学⽣のころ、ひとりの帰り道や留守番で怖さや寂しさを紛らわすために⿐歌を歌ったり、空想に耽ったりしながら苦手な時間が過ぎていくのを耐えていたので、そんな過去の私と照らし合わせながらセルマの世界観を咀嚼していく過程もおもしろかったです。
映画の中の現実が気づかせてくれたこと
物語の終盤、彼⼥の不器⽤さと理不尽な環境に漬け込んだ⾺⿅げた裁判で彼⼥の死刑が決まってしまい、死刑執行⽇、恐怖に耐えるためにいつものように空想でミュージカルに浸り「時間をください」「涙を流すだけの」と彼⼥が涙を流す場⾯があります。この場⾯で私は、いつもどんなときも他人を気遣い努⼒していたセルマが彼⼥⾃⾝のために流した涙だと信じたいと切に思っていました。 そして、セルマは信念を貫いて息⼦を守り抜き、しがらみのない世界へと⾶び⽴ちます。 全編とおしてセルマは「息⼦の遺伝は産んだ私の責任である」と⾃⾝を強く責め、ミュージカルでは「私はバカだから」と⾃らを蔑んでいましたが、彼⼥は決して「私は不幸な⼈である」と卑屈になったり、思い込んだりすることはありませんでした。 そこがまた私がセルマに惹かれる部分で、どんな残酷な状況でも⾃分を信じて、自分が納得できる最善の選択をしたセルマの愚直さが、初めて観たときの私には眩しすぎました。 この映画からは、何よりも現実の残酷さや冷たさを感じましたが、鑑賞当時の私が、現実逃避ではなくて現実を直視したい気分で、そんな私の気分にタイミングよく合っていました。とても不思議なもので、あまりにも⾟い現実を突き付けられたせいか、私はこの映画を観たことで、⾃分の感情を育てたり、労ったり、解放したりする場所が必要で、それを少しずつまた⾒つけていかないといけないと考えさせられました。 映画は、観る場所やタイミングによって⾒⽅や感じ⽅を変えるものだと思っています。そして、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』が私の中で印象深く残っているのも、鑑賞時の私の状態が影響しているのは間違いありません。私を窮地から救ってくれた作品として覚えています。 今回改めてこの作品を観て、ミュージカルに染まったセルマの⼈⽣のように、私も⼤切にしたいと感じた物事で私を満たしていきながら、自分の中にある愚直さとももう少し向き合ってみてもいいのかもしれないと思った次第です。映画後半からの悪夢のような展開や結末がセンシティブなだけに、なかなか気軽に観られる作品ではないかもしれませんが、個人的にはぜひ一度は観ていただきたい作品です。