10万人が犠牲になった「マニラ虐殺」…日本軍が起こした残虐行為をめぐる「知られざる真実」
11月16日にマニラで開かれた「アジアのノーベル賞」といわれるマグサイサイ賞の授賞式。 【写真】10万人が犠牲に…日本軍が起こした残虐行為「マニラ虐殺」を知っていますか 受賞者の宮崎駿氏はメッセージを寄せ、太平洋戦争時のフィリピンでの日本による多数の市民殺害について、「日本人は忘れてはいけない」と強調した。 ※本記事は、12月6日発売の辻田真佐憲『ルポ国威発揚』から抜粋・編集したものです。
目を背けたくなる虐殺の写真
マニラ虐殺をご存知だろうか。大東亜戦争末期の1945年2月3日から3月3日にかけて、フィリピンの首都マニラをめぐって日米の激しい攻防戦が行われた。巻き込まれて亡くなった一般市民は10万人以上。その一部は日本軍の残虐行為によって命を落としたといわれる。この後者をマニラ虐殺と呼ぶのである。 もちろん、このような市街戦の被害を正確にすべて裏付けることは容易ではない。ただ、現地では10万人という犠牲者数や日本軍の残虐行為は自明のものとして受け取られている。 わたしは今回、かつてスペイン人が築いた旧城壁都市にまず足を踏み入れた。フィリピン最古の石造教会であるサンアグスティン教会(世界遺産)や、ローマ教皇もミサを行ったマニラ大聖堂などが立ち並ぶこのエリアは、マニラ屈指の観光地であり、この日も国内外のひとびとで賑わっていた。 そんな一角の小さな公園にあるのが、「メモラーレ・マニラ1945」という追悼碑だ。その名のとおり、マニラ虐殺などを忘れないために、戦後50年の1995年2月に建てられたものである。 マニラ解放戦で殺害された10万人以上の男女・こども・幼児ひとりひとりのために、このモニュメントを墓石としよう。われわれはかれらを忘れていないし、これからも忘れはしない。 そう刻まれた黒い石碑のうえには、悲愴な群像が設置されている。案内板によると、中央のヴェールをかぶった女性は母国をあらわし、幼児を抱いて泣いている。幼児は希望の象徴だが、すでに亡くなっており、ここにもはや希望はない。そしてその周りに横たわるのは、戦闘の犠牲者、レイプの被害者、生き延びながらも絶望に打ちひしがれるひとびとだ。 モニュメント自体に日本への批判はないものの、案内板には日本軍による虐殺が行われた場所のリストが掲出され、また国立歴史研究所が設置した別の案内板には「日本帝国軍の残虐行為と米軍の激しい砲撃」で10万人以上の被害が出たと明記されていた。 さらに旧城壁都市の奥に進んでみると、サンチャゴ要塞(これもスペイン時代の遺物)にたどりついた。ここにも日本軍による残虐行為の犠牲者を追悼する白い十字架が立っている。その説明はさらに凄惨なものだった。いわく、この近くの地下牢で約600名ものフィリピン人と米国人の遺体が見つかったが、「その死因は餓死と窒息死とみられる」と。 問題の地下牢は見学もできる。「つねに品位と敬意をもって」と注意書きされた入口は狭く、腰をかがめないと入れない。マニラはこの時期、連日35度前後の暑さだけに内部は蒸し暑く、少し歩くだけで汗が吹き出してきた。 薄暗い内部を進むと、日本兵と犠牲者の様子が人形で再現されていた。これはつくりが安っぽく感じられたが、壁にずらりと掲示されたマニラ虐殺の写真には息を呑んだ。血まみれになって倒れているこどもや幼児の遺体が写っており、目を背けたくなるような光景だった。 解説には、マニラ市街戦で「日本陸軍は猛り狂い、街中で何千もの市民を殺害した。このできごとは今日マニラ虐殺として知られている」と書かれており、やはりマニラ全体で約10万人が犠牲になったとしている。 念のためもういちど繰り返すが、わたしはなにも山奥の戦跡にわざわざ足を運んだのではない。ここは、マニラホテルやリサール公園―東京でいえば、帝国ホテルや皇居前広場―から徒歩で行ける、きわめて一般的な観光地なのである。それなのに、これだけの情報が目に飛び込んでくるのだ。