「助けて」と言える練習を――重度の障害がある息子と経験した震災、行けなかった避難所 #知り続ける
株式会社福島放送
福島県いわき市の笠間真紀さんは、心身に重い障害があり医療的ケアが必要な息子を育てながら、障害児支援のNPO法人を運営している。度重なる地震や水害で経験したのは、障害児とともに避難所に入る際に自身の心に生じる壁だった。避難の必要性を感じながらも、自宅から避難所への移動に踏み切れない。配慮が必要な人を受け入れる福祉避難所の重要性を痛感し、行政や地域住民とともに、福祉避難所の開設訓練などに積極的に関わるようになった。福祉避難所を始めとする災害弱者の防災は、能登半島地震でも大きな課題となっている。“誰一人、取り残さない防災”を実現するために、笠間さんは「私たちには『助けて』と言う練習がもっと必要だ。」と訴える。
生まれてすぐ「重度の障害が残る」との告知に感じた不安と孤独
2010年10月、いわき市の笠間真紀さんは双子を出産した。2人の兄に続く、三男と四男だった。生まれてすぐ、三男は重い身体障害と知的障害がある「重症心身障害児」であると医師から告げられた。 「この子を残して死ねない。この子の1日後に死にたい。」 「理恩(りおん)」と名付けたその子は、NICU(新生児集中治療室)に入れられ、見たこともないような医療機器に囲まれていた。入院中は、聞いたことのない病名や薬の名前を覚えることで精いっぱいの日々。「この子はどういう風に成長していくのだろう? 」「在宅でどんな生活になるのだろうか?」と、将来への不安と孤独感に押しつぶされそうになった。ようやく退院して一緒に家に帰ることが出来たのは、生後2ヵ月の頃。その後まもなく、温暖ないわき市でもまだ肌寒さが残る3月。双子を連れて訪れていた病院で、笠間さんは強い揺れに襲われた。
祖母を背負った震災当日…感じた「災害弱者」の避難の難しさ
あの日。強い揺れに襲われて、頭上から何かが落ちてくるのを避けながら、乳飲み子2人を抱いて必死に建物の外へ逃げ出したことを覚えている。市内の集合住宅で一人暮らしだった祖母が気にかかり様子を見に行くと、エレベーターが止まっていた。急いで3階まで上り、足が悪い祖母を背負って1階まで下りて避難させた。幼い子どもや高齢者など「災害弱者」が避難することの難しさを感じた最初の経験だった。 自宅に戻ってからも断水が続き、物資も手に入りにくい日々だったが、避難所に身を寄せるという判断には至らなかったという。 「赤ん坊を連れて避難所に行っても、泣き声で迷惑がかかるかもしれない。」 命を守ることを最優先すべき場面でも、周囲の目を気にしてしまったと振り返る。 笠間さんは、理恩さんたち兄弟の世話をしながら、自宅と給水所を往復する毎日を送った。ガスも止まっていたため、風呂にも満足に入れなかった。笠間さんは「身も心も疲れ切っていた」と当時の心境を語る。3週間ほどして埼玉の妹夫婦の家に身を寄せ、家族でゆっくりと湯船につかることが出来たときに、ようやく肩の荷が下りたように感じた。水道やガスが復旧し、いわき市の自宅に戻ることが出来たのは、桜並木が満開を迎えた頃だった。それから笠間さん家族は、長い時間をかけて少しずつ日常を取り戻していった。 しかしこの8年後、一家は再び命の危機を感じる災害に襲われる。