松木安太郎が語る 少年時代と「東京五輪」への思い
5年後に迫った2020年東京オリンピック・パラリンピックを、体操の白井健三など若いアスリートへのインタビューなどを交えて盛り上げていく土曜日深夜の週末情報ステーション「TOKYO応援宣言」。松岡修造とともに応援ナビゲーターとしてレギュラー出演している松木安太郎だが、選手インタビューを担当する松岡に対して、松木はスタジオで清水俊輔アナウンサーらと番組を進行するMC的な立ち位置で出演。持ち味を活かした「Jリーグ応援解説」だけでなく、東京オリンピックを目指す若い選手たちの活躍を見ては“松木節”で番組を盛り上げている。
祖父と観戦した1964年東京オリンピック
松木と東京オリンピックには実は浅からぬ縁がある。1964年の東京オリンピックだ。 「ウチのおじいさんが相撲取り(元十両・葵竜)だったこともありスポーツが好きで、オリンピックを一緒に見た記憶があります。当時小学校1年生だったんですけど三宅義信さんが金メダルを獲った重量挙げ、体操、バレーボール…。選手たちが日本のために必死に頑張っているんだ、という思いで見ていましたね」 それは松木少年にとって強烈な印象として残っているという。 「『ALWAYS 三丁目の夕日’64』という映画がありましたが、その世界とピタリと当てはまるんです。ウチの父が小さいカラーテレビを初めて買ってきたり。道路も綺麗になるし、新幹線も開通した。さらにその数年後には大阪で万国博覧会が開催される。僕は小さかったのでよくわかりませんでしたが、まわりが変わって豊かになっていく、というのは感じました」 ただ、意外なことに1964年の東京オリンピックではサッカーは見ていないという。 「僕がサッカーを始めたのは小学校2年の終わりごろ。だから、当時はまだサッカーをやっていなかったんです。僕がオリンピックでサッカーの影響を受けたのは、日本が銅メダルを獲得したメキシコ大会ですね」 1964年の東京オリンピックが終わってからサッカーを始めた松木少年。その後、読売クラブ(現東京ヴェルディ)で活躍、引退後は監督としてヴェルディ川崎をJリーグ初代王者に導き、解説者となった現在はその熱い語り口で人気者となっているが、そんなサッカーとの出会いは些細なことからだった。 「サッカーがやりたくてサッカー部に入ったわけじゃないんです。ただ、まわりのみんながサッカー部に入っていたので、僕も友達が欲しかったから入っただけ。当時はゴールキーパーだったんですが、コンクリートのグラウンドでゴールキーパーをやるなんて、とんでもないこともしました(笑)。周囲もそれを止めようとしない。まさに昭和のイケイケのサッカーです。今思うと、高度成長時代と比例していた、というのかな」