『シビル・ウォー アメリカ最後の日』 すべてを目撃せよ、2024年の最重要作品
すべてを目撃せよ
『シビル・ウォー』はジャーナリストたちの政治的な立場を明らかにしていない。起きたことをありのままに伝えようとするジャーナリストたちは、二極化のどちらの側にも立っていない。大統領が共和党なのか民主党なのかも明言を省かれている。この映画は二極化の物語が導く最終的な勝利や敗北によるカタルシス、安易な感動を周到に拒否している。アレックス・ガーランドは、頑固なまでに戦争によるディストピアがどのように見えるかということに主眼を置いている。 サヴァイブすることがこの世界のすべてになっている者たちもいる。どちらの側のアメリカ人なのか分からない戦闘員。戦争の磁力は人々の信条の方向感覚さえ狂わせてしまうようだ。廃墟のテーマパーク“ウィンター・ランド”で出会う兵士たちは、政治的な信条で戦っているのではなく、殺される前に殺すという野生動物のような生存競争の世界にいる。屋敷の影に隠れて銃を放つ姿の見えない敵。ここではもはや敵が誰なのかさえ関係がない。政治的な“正義”は爆撃と共に既にどこかに吹き飛んでしまっている。ここでは生存だけが求められる。その意味で『シビル・ウォー』は“正義”の後の世界を描いた作品であり、“正義”が逸脱した後に何が残るかを描いた映画ということができる。墓場を管理する赤い眼鏡をかけた兵士(ジェシー・プレモンス)は問いかける。「(お前は)どのようなアメリカ人なのか?」。ジャーナリストという免罪符は彼には通用しない。この男はすべての観客を恐怖に陥れる。 ジャーナリストたちのロードトリップと同じく、『シビル・ウォー』という作品自体がアメリカを探し続けている。しかしアメリカはいったいどこにあるというのだろう?凄まじい銃声の音響に包まれる最前線の首都ワシントン。正義が逸脱した世界にほんの少しの良心は残っているだろうか?それともあらゆる良心は粉々に罰せられてしまうのか?『シビル・ウォー』は、すべてを目撃せよと言う。美も恐怖もすべてを目撃せよと言う。そこに勝利や敗北のカタルシスはない。この状況への問いだけが残る。それをこの映画はジャーナリズムと呼ぶ。すべてをカメラに収めるジェシー=ケイリー・スピーニーの表情には、アメリカの現在地が映り込んでいる。
文 / 宮代大嗣