【戦後80年特集】旧陸軍の能代飛行場 当時の貴重なフィルム映像を入手 読み取れることとは
ABS秋田放送
終戦から80年となる今年、日本テレビ系列各局では、「いまを、戦前にさせない」をテーマに、様々な企画をお伝えします。 貴重映像 終戦直後米軍が撮影した能代飛行場 10日は、かつて能代市にあった“ある飛行場”についてです。 終戦から間もない1948年に撮影された航空写真では、5つの構造物が確認できます。 これが、かつてあった飛行場の格納庫の基礎部分です。 ABSは、取材の過程で、飛行場の当時の様子をおさめたフィルム映像にたどり着きました。 終戦から今年で80年。 貴重な映像から、当時の状況をひも解きます。
■能代飛行場 当時の映像から読み取れること
能代市の中心部から北に約2キロの住宅街にある、JR五能線の踏切。 「飛行場踏切」と名づけられています。 かつてこの周辺にあった、“ある広大な飛行場”が名前の由来です。 広さ約3千ヘクタール、旧陸軍の能代飛行場。 終戦直後の1945年・昭和20年の9月にアメリカ軍が撮影したフィルム映像には、留め置かれた様々な機体の様子がおさめられています。 独特のフォルムが特徴の「東海」。 潜水艦の行動を探る哨戒機で、洋上で広い視界を得るため、ほかの飛行機に比べて、操縦席の窓ガラスが大きく設計されていました。 ずらりと並んでいるのは、旧日本軍が終戦間際に開発した攻撃機です。 本土決戦に備えて、実戦配備されたと言われています。 アメリカの国立公文書館から入手した、太平洋戦争に関するフィルムを10年以上にわたって解析・研究している、織田祐輔さんです。 記者 「これが終戦後に撮られた意図・目的は?」 織田さん 「日本軍の武装解除ですね。日本軍が本当に武装解除しているかの確認の第一陣で来ている感じ。(機体から)プロペラが外されているんですよね。飛べないように」 さらに、映像から、当時の戦況も読み解いてもらいました。 織田さん(東海について) 「終戦直前になって、アメリカ軍の潜水艦が何隻か日本海に入ってきて、暴れまくったので、それを発見して攻撃するために、本来なら太平洋側の基地にいた第903海軍航空隊の部隊の一部が、能代派遣隊を作って、日本海側の能代飛行場を拠点に、日本海での対潜哨戒を行っていた」 「日本海の制海権すらほぼ失いつつあったという感じですね」 織田さん(キ102乙について) 「もとは本土決戦の時に(米軍の)上陸部隊を叩くための部隊なんですけども、本来は所沢なんですよね、埼玉の」 「本来なら関東近辺で訓練したかったんですけども、関東近辺が全部米軍に制空権をとられちゃったので、米軍機が飛んでこられない能代に後退して訓練していた形ですね」 織田さん(飛行場全体) 「(能代飛行場は)米軍機の航続距離圏外だったから、安全な飛行場とみなされている」 「最後の部分の映像って、終戦時、能代で訓練中だった特攻隊の特攻機なので、安全とみなされてそこで訓練していたという感じですね」 特攻隊の訓練の場としても活用された、能代飛行場。 激しい訓練は、時に一般人を巻き込む、大きな事故を起こしていたといいます。