東京藝大・箭内道彦教授に聞く 生成AI時代、広告クリエーターはどう受け止める?
本当はイラストレーターになりたかった
――箭内教授は藝大を卒業後、博報堂に入社しています。どんな経緯で広告代理店を選んだのでしょうか。 今回のアワードの作品を見ていて、本当はイラストレーターになりたかった自分を思い出しました。僕は、イラストレーターになれなかった人生だったんです。僕が大学にいた1980年代は、グラフィック系のデザインの学生の多くがイラストレーターになりたかった時代でした。 しかし、商品としての強さをオリジナリティーとして持っている絵を描けないとイラストレーターにはなれません。「自分にしか描けない絵はどんな絵なんだろう?」と大学在学中ずっと考えていました。何かを描いても、どこかの誰かの絵に似てしまう自分に対し「ああでもないこうでもない」と?(もが)いていましたね。 イラストレーターになることができないことを思い知って、広告代理店に志望先を切り替えた経緯があります。僕は大学の4年間を、個性を探すことの呪縛から逃れられないまま終えました。自分の個性を見つけた周りの同級生たちがうらやましくて仕方がありませんでした。 ただ今になってみると、自分の絵が結果として誰かの二番せんじになってしまうことにむしろ面白さを見いだしています。個性を無理やり見つけてきたものではない絵に、僕はとても魅力を感じるようになりました。コピックアワードへの応募作の中にも、そういう魅力のある作品が多かった印象です。 コピックアワードの審査に携わって良かったと思うのは、この賞がプロのイラストレーターへの登竜門ではなく、今自分が好きだと思う絵を描いている人たちが胸を張り合う場所に立ち会えたことです。まさに初心に帰ることができる機会でした。
絵を描く過程にこそ価値がある
――近年ではPCやタブレットによる作画が当たり前になり、手書きによるイラストが少なくなる一方です。さらに近年では生成AIによる描画も台頭してきています。箭内教授は生成AIの動きについてどのように見ていますか。 便利なツールであることは間違いないと思います。よく、そのような質問をされると、「AIにできないことを見つけるのが俺たち人間の仕事だ」という風なことを言う人がいます。それは外れてはいないと思うのですが、僕はAIによって節約して得られる時間にこそ差異があると考えています。 僕は、表現物というのは、見る人のためだけのものではなく、まずは作者のものだと考えています。作者にどんな失敗や葛藤があり、その作品のゴールにたどり着いているのか。その過程を味わうことこそが、僕はアートだと考えています。AIには全くそれがありません。もちろん、AIをディレクションする人の違いはありますが。 絵から作り手の試行錯誤や葛藤が感じられる部分に、非AIの意味があると思います。今日のイラストを審査していても、審査員によって全然違う解釈をしているのも印象的でした。AIの絵だとそうはならないでしょう。正解もなくて、逆にいろいろな解釈ができることが、人が描く絵の豊かさや素晴らしさなのだと思います。 ですから、AIによって仕事が奪われるという考え方もありますが、AIが生み出したものと人が生み出したもので、どっちが優れているとは一概に比べられないと僕は思います。絵を描く時間を体験することが、「絵を描く者の自由」の最たるものです。絵を描くことをアウトプットだと思っている人も少なくありませんが、そこに至るプロセスにこそ素晴らしさがあります。