デフレ脱却、SNS規制… NHK大河「べらぼう」が100倍楽しめる現代的視点
通貨の改革で財政も物価も安定化
しかし、意次が実権を握ったころ、幕府の財政は厳しい状況にあった。 17世紀後半以降、直轄する鉱山の採掘量は減り、長崎貿易で金銀は流出。しかも貨幣経済は否が応でも浸透して財政支出は増え、財政難が恒常化していた。だから将軍吉宗は、新田開発を奨励し、年貢率を引き上げ、大名から米を徴収する上米の制を定め、さらに倹約令を発するなどして財政再建に努めた。その結果、一時的には年貢の徴収高も増えたが、米の供給量が増えれば米価は下落する。年貢高だけに頼る政策には、すでに限界があった。 そんななかで、田沼はどうしたか。一つは宝暦11年(1761)の「宝暦の御用金令」が挙げられる。いくら年貢高が増えても、米価が下がってしまっては幕府も各藩も財政が窮する。そこで、幕府が商人から低利で資金を借り入れ、それを使って米を買い上げ、価格が上がったところで売り払うことにした。こうして米価を維持したのである。 また、商品経済を支える通貨を改革した。当時、江戸では主に金貨で取引されたが、大坂では銀貨が使われた。ところが、金貨と銀貨の交換レートが安定せず、幕府や各藩が損をすることが多かった。というのも、幕府も各藩も年貢米を「天下の台所」である大坂で金銭化したが、それが一時期に集中するので、どうしても米価が下落する。続いては、大坂で得られた銀が同時期に江戸に流れ込むので、また買い叩かれる。そこで意次は、8枚で小判1枚と交換できる純度98%の良質の銀貨「南鐐二朱銀」を発行し、金銀の交換レートを一定化した。 しかも、幕府がはじまって以来、海外への流出が止まらなかった金と銀を、むしろ中国やオランダから輸入することで、通貨の価値の安定を図ろうとしたのも意次だった。そのためには銅のほか、なまこやあわび、ふかひれなど主として蝦夷地で採れる産物を乾燥させ、俵に詰めた「俵物」が、主として中国向けに増産された。
経済の実態を肯定した構造改革
それまでの政権では、金銀の産出量が減るなかで、金銀の含有量が高い貨幣を鋳造した結果、貨幣の発行量が減ってデフレに陥った。そこで金銀の含有率を減らすと、今度は貨幣への信頼が失われた。一方、意次のもとでは、金銀の含有量を高く維持しながら貨幣発行量が増やされたので、財政も物価も安定することになったのである。 このように米価のほか、商品経済を支える通貨を安定させた意次。しかし、農業に支えられた経済から商品経済へと移行しつつあるなか、幕府財政の基礎を農業だけに頼ったままでは、あたらしい時代に対応できない。そこで、商人たちが同業者組合である株仲間をつくって営業を独占するのを許可する代わりに、運上金や冥加金という名の営業税を徴収することにした。 まだまだあるが、こうした意次の政策は、一言でいえば、経済の実態を肯定し、それに逆らわずに、適度なインフレに誘導しながら構造改革を進める、というものだった。 天明6年(1786)に意次を重用した将軍家治が死去すると、老中を免職となって隠居および謹慎を命じられたが、それは経済政策の失敗によるものではない。天明の大飢饉が足かせになったにせよ、それ以上に、反田沼派によって追い落とされたのである。 商人の力を活用したため、賄賂が横行した面はあるにせよ、意次自身が賄賂を受け取ったという記録はない。のちの政権が前政権を否定するために、あることないことを流布することは、古今東西で普通に見られる。田沼意次に対して否定的なイメージが強いのは、そのプロパガンダがいまなお力を持っている、ということだろう。