「スパイラル」休止に思う 元五輪スケルトン代表・中山英子
記者から五輪選手へ 通い詰めた場所
私は98年長野五輪の前年から地元・信濃毎日新聞社の運動部記者としてボブスレー・リュージュの担当を任された。五輪の成功はポスト五輪の長野市や競技がどう発展するかに尽きると思っていた。当時からコストがかかる「お荷物施設」的扱いを受けていたスパイラルがどのように市民の中に溶け込んでいくのか、また、どうやって選手を強化していくかが最も気になった。 五輪種目として歴史が長いボブスレーとリュージュの欧米諸国のレベルは高く開きがあったこと、また体格差やそりの価格など含め、2種目の強化には時間がかかると感じた。そんな中、2002年のソルトレークシティー五輪で正式種目として54年ぶりに復活することが長野五輪の後に決まったスケルトンに着眼。当時国内のエースだった越和宏選手(現スケルトン強化部長)がワールドカップで入賞レベルにあったこと、また、1人乗りの種目であり、比較的大人からでも取り組みやすいスケルトンは、そり競技とスパイラルの発展の大きな鍵を握るのではないかと感じ、私は取材を重ねた。 長野五輪の翌シーズンにあたる98年の12月に初めてスケルトンを体験滑走、その体感に魅せられた。スケルトンは30メートルに満たないスタートダッシュから腹這(ば)いに乗り込み、約1分間そりに乗って肩と膝を中心に全身で微妙に操作しながら下り降りる。以前スキーに熱中し、新雪の中、舵(かじ)を自分自身で取りながら自由に滑走したときの感覚と似ていた。慣れてくるとほんの細かな心の動きが滑走やタイムに反映してくることが分かり、スピードとともに自分を見つめる1分間への好奇心が一層高まり、仕事の合間に足繁くスパイラルに通うようになった。 その年の全日本選手権に初めて出場、スタートダッシュの速さが功を奏し、6位入賞。同じタイミングでソルトレークシティー五輪にスケルトンが五輪正式種目となり、競技連盟がスケルトンの強化を始めることになった。私は強化選手として選出された。それをきっかけに記者と選手の二足のわらじを履きながら五輪挑戦するという想像だにしなかった世界が目の前に広がった。 2002年のソルトレークシティー、2006年のトリノの2度の五輪に出場。その後もバンクーバー、ソチ、来季の平昌と出場を目指したが果たせず、昨年12月末の全日本選手権で一線を退いた。くしくも自分にとって区切りを迎えた直後、スパイラル休止が決まった。19年間の競技生活の中でつらいことはたくさんあったが、滑走する魅力は何ものにも勝るものだった。記者時代から通い詰めた場所でもあった。それだけに言葉にならないやるせなさが胸に広がった。