電車の車掌になった元甲子園のヒーロー、一人の駅員として人と接する日々に「新鮮で楽しかった」
駅員生活は楽しかった
――JR西日本は広島が拠点でした。当時はどんなスケジュールを過ごしていたのでしょうか。 近田 午前中は社業で、午後から練習という形です。1年目は営業課に勤務していました。メールでの事務連絡とか、駅員を経験させてもらいました。 ――野球部の活動がない期間は一社会人として働いていますが、そういった経験はどうでしたか? 近田 とても新鮮で楽しいものでした。お客さんたちは、僕のことを元プロ野球選手、JR西日本野球部の近田ということを知らない。一駅員さんとして挨拶してくれます。これまでの人生は関わった方々は野球選手・近田ということを知って接してくれました。そうではなく「ただの近田さん」「ただの駅員さん」として接してくれる日常は楽しかったですね。同僚の方にも恵まれて、「野球、頑張って!」と応援してもらって、周りの人々に支えられていると実感しました。 ――どの駅に勤務されていたんですか? 近田 広島の横川駅で改札していました。通勤・通学時間帯になると沢山の人がいるのですが、その時間が過ぎると閑散とした駅でした。電車に乗るおばあちゃんが、僕らに「買い物で広島駅までいってくるわ」といってきて、僕も「おばあちゃん、いってらっしゃい!」と送り出して……。そんな穏やかな駅でした。 ――車掌試験も受けたと聞きました。 近田 はい。約2ヶ月間の勉強と実習を乗り越えて車掌になりました。明石方面を担当していました。各駅停車、快速、新快速などいろいろあり、そして広島時代よりも人がかなり多い路線でしたので、大変でしたね。 ――そこからどういうきっかけで京都大の指導者への道があったんですか? 近田 2015年に野球選手を引退して、勤務地が広島から兵庫県の三ノ宮に代わりました。高校時代以来の関西に戻ることになりました。1年後、食事会で京都大学のOBの方とご一緒したとき、「京大の野球部の練習見に来てよ!」と言われたのがスタートでした。その方から言われたのは「レベルが低いと思ったら、辞めてくれていいし、気に入ったら、野球部見てよ」といわれました。実際に見に行くと、ゲッツーをしっかりと完成させていますし、何よりも学生たちが楽しく野球をやっていたんです。こういうところで野球をするのは楽しいなと思って、「僕で良ければ」ということでスタートしました。 近田 怜王(ちかだ・れお) 1990年4月30日生まれ。報徳学園時代は07年の春夏、08年の夏と3度の甲子園に出場し、08年夏はベスト8入り。08年ドラフトではソフトバンクから3位指名。09年からプロ4年間は一軍登板なしに終わり、最終年の12年は野手に転向。13年から活動再開となったJR西日本野球部でプレーし、15年に都市対抗出場し、現役引退。2017年から社業の傍ら、京都大の臨時コーチに就任。18年4月から正式にコーチ就任し、21年11月から監督に就任。22年春には開幕戦から勝ち点をあげるなど3選手がベストナインに選出された。今年の24年春は関西大、立命館大から勝ち点をあげて、4位に躍進している。