「持たない暮らし」が人間本来の生き方である理由 定住や所有のない「第2のノマディズム時代」
通信情報革命と、コストが下がったことによって、動きやすくなったわけですが、もっと大きな理由があります。 例えば、日本の場合、明治以降、人と人とを繋ぎ止めてきた地縁、血縁、社縁というものが薄くなってしまい、人々がバラバラになりました。 明治初期に東京へ移住してきた人たちは、当時は、故郷を持っていましたが、今は第5世代となり、故郷はありません。僕の家もそうです。 その人たちにとっては、東京に住もうが、愛知に住もうが、過ごしやすい場所ならどこでもよいはずです。実際に、そういう人が増えていますし、居住せずとも旅しているという人もいます。
日本のいろんな地域を渡り歩いたり、世界に出たりして移動する時代において、人々の繋がりがどうなるのか。僕は、この点を論じなければならない時代になったのではないかと思っています。 そもそも、人間同士のトラブルは、農耕牧畜からはじまっています。 農耕牧畜がもたらしたのは、定住と所有です。人々の住む場所が決まっていて、そこにアイデンティティを持つ。そして、所有はその人の価値を決めます。 しかし、そんな価値観は、人類の進化史700万年のうち、最後のたった1万年のものでしかありません。
農耕牧畜以前、狩猟採集の時代には、所有が人の価値を決めるなんてことはありませんでした。誰も定住していなかったし、誰も所有なんてしていなかったからです。 現在に残る狩猟採集民も、なるべく所有しないようにしています。だから喧嘩が起こらないし、戦いが起こらない。 しかし、今、所有物や土地、領土をめぐって、国や民族という単位が戦争を起こしています。この点を解消する方向へ向かわなければならないのではないでしょうか。
人が移動することによって、所有は減るでしょう。多地域居住で転々としていくなら、ハウスシェア、カーシェアなど、共有財が増えればいいのです。 日本には900万戸もの空き家がありますが、それらをちょっと改造すれば、いくらでも住める家ができる。地方の自治体が少しお金をかけて整備すれば、関係人口や流動人口を招くことができるでしょう。 ■「モノ」は人と人とを繋ぐものだった 所有するモノの価値は、我々自身が決めているのではなく、マーケットが決めているという問題もあります。そして、グローバル企業がそれを人々に買わせている。