皇籍離脱を自ら申し出た旧皇族の情願書を発掘! 社会学的皇室ウォッチング!/117 成城大教授・森暢平
◇これでいいのか「旧宮家養子案」―第19弾― 敗戦後に皇籍離脱した旧皇族が、日本国憲法施行から約半年間は皇位継承資格を持っていたことが、旧宮家養子案の論拠の一つになっている。だが、旧皇族は憲法施行前に皇籍離脱を自署をもって申し入れている。それを示す情願書を今回、筆者は発掘した。皇籍離脱は、旧皇族自らの意思であった。(一部敬称略) 情願書は、閑院宮春仁(のち閑院純仁と改名)の著書『私の自叙伝』(1966年)に紹介される。だが今回、筆者の調査によって、宮内庁宮内公文書館に写しが保管されていることが分かった。 「最近の国情に鑑み今後わ(ママ)皇族の身分を離れ、宗室の外に在って皇運を輔(たす)け世務(せいむ)に尽したいと思います。茲(ここ)に謹みてこの情願を容れ給(たま)わむことを冀(ねが)います 昭和二十二年三月六日」 昭和22年は1947年であり、2カ月後の5月3日、新憲法が施行される。情願書には日付が5月1日になっているものもあったが、事情は後述する。 情願書は、伏見宮朝子(ときこ)、博明、光子、賀陽宮(かやのみや)恒憲、久邇宮朝融(くにのみやあさあきら)、俔子(ちかこ)、静子、梨本宮守正、朝香宮鳩彦(やすひこ)、東久邇宮稔彦、北白川宮房子、祥子、竹田宮恒徳(つねよし)、閑院宮春仁、東伏見宮周子(かねこ)の15人分。1人を除くと、印刷された宮内省起案の書面の最後に署名が書かれる。宮内公文書館にあったのは写しなので、署名部分は宮内省職員の筆記である。原本は宮内庁の現部局が保管中であろう。 文章が異なるのは朝香宮鳩彦の分である。「勅諚(ちょくじょう)を畏(かしこ)み、今後は皇族の身分を離れ、宗室の外にあって皇運を輔け世務に尽したいと思います。茲に謹みて微衷(びちゅう)を陳(の)べ、聖鑑(せいかん)を仰ぎます」とあった。 ◇朝香宮の「勅許」主張認められず意思離脱に 文章を変えたのは朝香宮なりの抵抗であろう。朝香宮は前年(1946年)、「臣籍降下をやるなら勅許でやれ」と注文をつけ(高橋紘ほか『天皇家の密使たち』)、離脱に抵抗したことが知られるからである。「勅諚(天皇の決定)をおそれ多くも承り」「微衷(本心)を陳べ聖鑑(天皇の判断)を仰ぐ」という表現は、昭和天皇への皮肉と批判が表れている。「こんな事態になり、皇籍離脱しなければならないのは、天皇の責任だ」という気持ちが込められている。結局、勅許(天皇の許し)による離脱の主張はとおらず、結果的には本人の意思(情願)による離脱となった。