皇籍離脱を自ら申し出た旧皇族の情願書を発掘! 社会学的皇室ウォッチング!/117 成城大教授・森暢平
男系継承維持派は、昭和天皇は、旧皇族の離脱に反対し、最後まで抵抗したなどと論じる。歴史の読み間違いである。天皇の本心は離脱推進だ。だから朝香宮が反発するのである。 ところで、旧皇族は当時11宮家51人があり、なぜ15人分かと言えば、基本的に、当主が離脱すると直系卑属は一緒に離脱するからである。ただ、当主が兄博明(15)であった伏見宮章子(13)、小学生だった北白川宮家の当主、道久(10)と妹の肇子(はつこ)(7)は家族で離脱とはならない。このため、意思による離脱ではなく、「やむを得ない特別の事由」(皇室典範第11条2項)による離脱となり、情願書はない。また、山階宮家にひとり残っていた当主、武彦(49)は、心の病が悪化しており、意思を示せる状況になかった。このため彼も同条同項での離脱となった。 こうして15人分の情願書で、当時の旧皇族51人が、一斉に皇籍離脱する。1947年10月13日の皇室会議で決まった。たしかに、この日は、日本国憲法施行(同年5月3日)から5カ月後で、51人は新憲法下のわずかな期間、皇族の身分を保持した。 しかし、前述したとおり、情願書が最初に書かれたのは3月6日だ。翌日、「皇族の身分を離れる者等に対する一時金支出に関する法律案」が閣議決定されるので、それに備えて、署名を集めたのである。当初、皇籍離脱は、憲法施行前に予定されていた。言い換えれば、新憲法施行をもって、11宮家は皇室から切り離されるはずだった。 ところがGHQ(連合国軍総司令部)は、離脱する11宮家に多額の一時金が支出され、それが新しい国会の審議を経ないことを問題視した。明治憲法下での離脱にストップをかけ、5月3日以降、国会で審議してから離脱一時金を決めることを求めた。このため宮内省は憲法施行直前の5月1日、15人分の情願書を集め直し、新憲法下の議論に備えたのである。 こうした事情で、11宮家のメンバーは新憲法下でも5カ月間、皇族であった。形式的には男子に皇位継承権はあっただろう。しかし、一旦、「辞表」を出したメンバーに、実質的な継承権があっただろうか。