「評価されること」と「売れること」が必ずしも一致しない「冷徹な現実」...『中央公論』編集長として考え続けた2年間
<「売れなくても中身が良ければいい」と開きなおるつもりはないが、「売らんがため」では総合誌の存在意義が失われかねない。デジタル時代における、紙の雑誌の役割について>【五十嵐 文(『中央公論』前編集長、読売新聞論説副委員長)】
興業で満員御礼になると出る「大入り袋」は、雑誌がよく売れた時にも配られる。 月刊誌『中央公論』編集長を務めた2年間で、最初にして最後の「大入り袋」は、「>最新版 消滅する市町村744全リスト 全国1729自治体の9分類データ付」と題して人口問題を特集した2024年の6月号だった。 【表を見る】10年間で年収が増えた職業、減った職業 2014年にも話題になった増田寛也元・総務相らによるリポートの最新版ではあったが、人口減少という地味なテーマがこれだけ売れたのは、正直言って意外であったのと同時に、かなりうれしかった。 国や自治体の関係者に限らず、出身地が気がかりな都市住民など、人口問題に関心を寄せる「当時者」は、実は結構いるのかもしれない。 特集では、紙幅を惜しまず、すべての自治体の詳細なデータを、編集部独自の注釈なども加えて収録した。 そこに価値を見いだしてくれた読者には、もともとの『中央公論』の購読者のみならず、これまで手の届かなかった「潜在的な読者」がいたのだと思っている。喜びの理由は、そこにある。 すぐに答えは見つからない地味なテーマでも、切り口や見せ方次第で、より多くの読者とつながることができる。 その営みは、新聞やテレビなど、締め切りに追われ、視聴率を気に懸け、日々消費されていく情報に多くの時間とエネルギーを費やしている他のオールドメディアとも、一時の関心を集めるためなら情報の信ぴょう性すら問わないアクターが跋扈するネット空間とも、違った役割が残されているのではないか――。 編集長を退き、毎月の特集を決める重圧から解き放たれた今でも、そんなことを考え続けている。 ◇ 『アステイオン』の創刊100号で、「『言論のアリーナ』としての試み」という特集を組んだことに心を動かされたのも、雑誌ならではの役割、特性を追求しているという意味で、この記念号が発刊される2カ月ほど前の『中央公論』(24年4月号)での「荒れる言論空間、消えゆく論壇」という特集と、問題意識が重なっていると感じたからだ。 「ネット上に玉石混交の言説があふれる今、何をどのように問うのが知的ジャーナリズムの使命なのか」。記念号の巻頭言にあった田所昌幸の問いかけが、それを端的に示している。 総合誌が衰退傾向にあることは、否定できない事実だ。近年、休刊も続いた。これを再生させる特効薬や処方箋が、簡単に見つかるとは思っていない。それでも、総合誌を存続させていく意味は何か。 記念号で多くの書き手が、早くて浅い理解を求めるのではなく、わからないことに向き合うこと、答えようと努力する営みの重要性を説いていたことに、深い共感を覚えた。 50人を超える執筆陣が、一冊の雑誌に名を連ね、共通のテーマを論じていること自体、とても価値のある企てだ。 『アステイオン』が創刊された1986年から論壇の第一線で活躍していた大御所から、当時は生まれていなかった若手まで、年代も専門分野も実に多彩で豪華な顔ぶれである。 表紙や目次から、気になるタイトルや論者の名前を見つけ、好きな順番とタイミングで読み進め、立ち止まって考える。 独立して書かれたはずの論考と論考の間に、それぞれの書き手が予期していなかっただろう共通項や響き合いがあふれてくる。読み手の思索を、どんどん膨らませてくれる。 残念なことに、現代社会は、自分のペースで情報に向き合い、思索の手がかりを探す時間的な余裕が加速度的に減っているように思う。 論考の一つで宇野重規は、SNSの普及に伴い、日々新たな情報に一喜一憂し、それを瞬時に忘れ、じっくりと課題に取り組むことがない社会は「過敏で鈍感」であると指摘している。 持続的な意思を持ち、粘り強く議論を続けていく「公論」の場が不足していることが背景にあるという分析には、うなずくしかなかった。 そこに、これまでも、今も、そしてこれからも、総合誌のなすべきことが凝縮されているように感じた。 ◇ 編集長としての2年間で痛感したのは、「評価されること」と「売れること」とは、必ずしも一致しないという、当たり前だが「冷徹な現実」である。 全国紙などの論壇時評で、雑誌の特集や企画が一本でも多く取り上げられ、快哉を叫んでみても、売り上げがついてきていないということは、何度もあった。 そんな時、『アステイオン』初代編集長で、『中央公論』の編集長も務めた粕谷一希が「人生をいかに生きるべきか」「社会はどうあるべきか」「世界にはどういう意味があるか」といった根源的な問いを発するのが、アカデミズムとジャーナリズムの両方を担う総合誌に必要な思想だと語っていたという逸話を、記念号の河合香織の論考「自由な知的ジャーナリズムの探求」で知った。 「売れなくても中身が良ければいい」と開きなおるつもりはない。その時に失われるのは、「潜在的な読者」なのかもしれないのだから。売れないことで、「言論のアリーナ」を提供する機能も失われるかもしれないのだ。 一方で、「売らんがため」に、粕谷の唱えた意義を1ミリでも損なってしまうようでは、総合誌の存在意義が失われかねない。 編集長として、売り上げや論壇時評での反応に一喜一憂、七転八倒しながら、「次の号では何を世の中に問いかければいいか」と考え続けた日々をいとおしく思い出す。 ちなみに、『中央公論』の出す「大入り袋」には、100円玉しか入っていない。ペットボトル1本買うのにも足りないぐらいだから、袋を開けることはない。 雑誌編集を離れ、再び、記者として激動する国内外のニュースに注意を傾け、取材して記事を書くというかつての生活リズムを取り戻しつつある今は、この小さな袋を自分の机にお守り袋のように置いてある。 これを見る度に、場を提供する側から、場で踊る立場になっても、「言論のアリーナ」を永らえさせるために何ができるかを自問している。 より多くの人がこのアリーナで、時には意見を戦わせ、時には共鳴し合い、それまで見えなかった新しい地平が開けてくる営みこそが、社会をフェアで強靱なものにするのだと信じている。
五十嵐 文(『中央公論』前編集長、読売新聞論説副委員長)