「家族の空気を和ませなければ…」小学生だったヤングケアラーの私が「ケア」していたもの【経験談】
ヤングケアラーというと、家族で支え合うイメージを持つ人も多いと思います。でも実際には色々なヤングケアラーがいるようです。デザイン事務所の代表を務める米田愛子さんは、小学生の頃から家族のケアをしてきましたが、だんだんと心身に不調が出始めます。家族との関係のつらさから自殺を考えたこともありましたが、絶縁宣言をし、生きづらさを解消していくために、自身と向き合い、カウンセリングにも通いました。ヤングケアラーとしての経験にはどのようなつらさがあったのか、お話を伺いました。※本記事には機能不全家族に関する具体的な記述が含まれます。 <写真>「家族の空気を和ませなければ…」小学生だったヤングケアラーの私が「ケア」していたもの【経験談】 ■「家族の雰囲気を良くしなきゃ」ピエロのように振る舞った子どもの頃 ――生まれたご家庭でのご経験からお話しいただけますか。 父、母、姉、兄、私の5人家族で、きょうだいはそれぞれ2歳ずつ離れています。私がヤングケアラーになったのは、小学4、5年生の頃。姉が不登校になって、兄は指定難病の「筋ジストロフィー」という筋肉が壊死する遺伝性疾患になるといった、色々なことが重なった時期です。両親とも医療従事者だったこともあって、自分たちでなんとかできると思っていたようですが、色々な大変なことを、家庭内で抱え込んでいる状態でした。 私は家事をしながら家族の精神的なケアを担っていました。家庭内が全体的に不安定な雰囲気で、家族は圧をかけているつもりはなかったと思うのですが、私にとっては、家族が機嫌良くいられることや、家族が円満でいることを人質に取られているような感覚でした。 私が我慢したり面白いことをしたりして、家族の空気を和ませなければというプレッシャーを感じ、ピエロのように振る舞っていたんです。家族から容姿を卑下されたり「学がない」と言われたりしても、サンドバックになっていました。 ――子どもの頃に印象に残っている出来事はありますか? 私が中学生のとき、高校生であった姉が自殺未遂をしました。オーバードーズした瞬間を見ていて、姉はぼーっとしていて。私は何が起きたのかよくわかっていなくて、今は近づいちゃだめだと思って離れたんです。しばらくしたら両親が慌てて対応し、そのうち警察と救急車が来ました。私は現実を受け止めきれなくて、自分の部屋で映画を爆音で鳴らし、現実逃避をしていた記憶が残っています。 その後、私も精神的に不安定になり自傷行為をするようになりましたが、父から「死なへん程度にやりや」と言われたのもショックでした。「どうしたの?何があったの?」と聞いてほしかった。 当時の父の年齢に近づいてきた今考えると、父もキャパオーバーだったのだと思います。なぜ父がそういう態度をとったのか理解したくて、過去の父の振る舞いを思い出しました。親戚で集まるときも父だけ孤立していて、人とコミュニケーションをとるのが苦手な人でした。今は「仕方がなかった」となんとか自分を納得させています。 ――高校生以降はいかがでしたか。 不眠症や自傷行為もあり、不登校になってしまい、高校3年生だけ定時制高校に編入し、祖母の家で暮らしていました。そしたらみるみる体調が良くなって。当時は実家を離れたことが理由だと自分で気づいていなかったのですが、大学進学時に実家に戻ったらまた体調が悪くなって希死念慮も出てきたんです。それで「体調不良の原因は実家なのかもしれない」と思い、一人暮らしを始め、その後は精神的に落ち着いていきました。 大学は芸術系に進学し、卒業後は、テレビ局を2社経験した後、商社に入り、2019年には映像デザイン事務所を開業しました。主な業務は映像作品の制作や、ウェブサイトやインターネットショップのデザインなどです。 ――2022年には『おにい~筋ジスになって絶望はないの?機能不全家族の妹が問う~』を公開しています。 元々は大学の授業をきっかけに制作したものを、8年間封印した後、編集し公開しました。授業では、家族をテーマに作品を作ることが決まっていて、筋ジストロフィーという病気でありながら、前向きに見えるのはなぜなのか興味を持ち、兄を選ぶことに。当時は、家族に対する苦しさを感じつつも「家族だから」と思い、うまくやっていこうとしていました。 最初に公開した際に、賞をいただき、それを機にテレビ番組でも取り上げられたんです。受賞したことも全国放送されたことも友達は褒めてくれたのですが、家族からは「お前への評価じゃないから勘違いするな」と言われ、とんでもないことをしてしまった、もう見せてはいけないと思い、封印しました。 2020年の年末に大掃除する中で、テレビ放送時のディレクターとのメールを発見し、そこには視聴者さんからの感想が書かれていました。放送時には自信をなくしていたため、視聴者さんの言葉を真に受けてはいけないと思ったのですが、改めて見たらすーっと自分の中に染みわたってきて。「もう一度この作品でできることをしたい」という気持ちになりました。既に映像データは全て消去したつもりだったのですが、掃除する中で古いUSBを見つけ、その中にデータが入っていたので、2022年に再度公開しました。 ■自分の心身の安全のため、家族と絶縁 ――ご実家での経験が特殊なものだと気づいたのは、いつ頃だったのでしょうか。 違和感を抱き始めたのは、社会人になってからです。それまでも苦しさはあったものの、うちの家庭が特殊だとは思っていませんでしたが、社会人になって外の世界を知る機会も増えてから「うちは少し変わっているのかも」と思うようになりました。その後、友人や恋人など、色々な人間関係を通じ、違和感が確信に変わったのは、2020年のことです。 ――確信に変わったきっかけはどんなことでしょうか? 大学の途中から一人暮らしを始めたものの、2019年からは訳あって実家で暮らしていました。でも徐々につらくなってしまい……だんだんと限界に近づき、2019年の年末ごろ、自殺するつもりで身辺整理をしていました。 家にあるものを全部処分し、仕事も全て納品したうえで、当時は冷静さを欠いていたこともあり、クライアントとの連絡を絶ちました。遠距離恋愛をしていた当時付き合っていた人に別れの挨拶をしたところ、「死ぬにしても生きるにしても、あなたと一緒にいたいのでこっちに来て結婚してみないか」と言われました。このつらい状況を抜け出せるラストチャンスかもしれない。そう思いつつも希死念慮はありましたので、「結婚してから死ねばいいかも」と思い、実家を出て結婚しました。 パートナーはビジネスケアラー(社会人として働きながら介護をする人)で、実家でも色々とあったので、家族の形は色々であることをわかってくれる人です。 ――実家を離れたら楽になったのでしょうか? 実はそう単純なものでもなくて……。死を考えるほど家族のことは苦しかったのに、半分逃げるような形になったことは、後悔と嬉しさが入り混ざった複雑な思いだったのを覚えています。でも、自分の心身の安全を考え、これからは家族と関わらない方がいいと思い、絶縁宣言をしました。 絶縁宣言後も最初は心の整理がつかなかったです。家族を捨てたことの罪悪感で潰れそうになったり、「押しかけてくるのではないか」という恐怖心もありました。不眠に悩んだり、深夜に家から出て放浪してしまうことも。 でもふと「この先どうなりたいんだろう」と向き合って。家族との連絡手段を完全に絶つために、友達や仕事先の連絡先も消去した。全部失った後で、このまま落ちていくのは嫌だと思ったんです。パートナーに迷惑をかけているのもつらいですし、私自身も変わりたいと思いました。 その後は、なぜこんなに体調が悪くなるのか、何が原因なのか、向き合う時間をたくさん作りました。ネットで調べるうちに、「毒親」や「アダルトチルドレン(※)」という言葉に出会い、自分が感じている生きづらさに名前があるのを知ったんです。 ※アダルトチルドレン:元々はアルコール依存症の親のもとで育った人を示していたが、現在では、様々な機能不全のある家庭で育ってきた人を示す。大人になっても精神的な側面や、人間関係等で影響が残っている人も少なくない。 当事者のエッセイや精神科医のコラムを読んだり、カウンセリングにも申し込んで家族のことを話したら「それはいわゆる毒親にあたる傾向が強いですよ」と言ってもらえて、肩の荷が降りました。 私の場合、親が毒親だったというだけでなく、家族に色々な問題があったように感じ、機能不全家族についても調べ、今は図解のフリー素材を作ったりもしています。 ※後編に続きます。 【プロフィール】 米田愛子(こめだ・あいこ) 社会課題をテーマに活動。映像デザイン事務所CreDes代表。 ドキュメンタリー『おにい~筋ジスになって絶望はないの?機能不全家族の妹が問う~』NNNドキュメント、世界仰天ニュース、海外映画祭受賞 ■X(旧Twitter):@official_credes インタビュー・文/雪代すみれ
雪代すみれ