【卓球選手のセカンドキャリア】金メダリスト水谷隼を育てた男、今福護。「ダイヤモンドの原石も磨かなくては光らない」
元全日本ダブルス準優勝、浜松修学舎総監督は小学生の水谷と出会った
名門・愛工大名電高の時にはインターハイの学校対抗で2度優勝を経験。実業団では日本楽器(のちにヤマハ)で活躍した元日本リーガー、今福護。全日本選手権では男子ダブルスで準優勝した。実業団では34歳まで17年間プレーした後、ヤマハ卓球部の女子監督を務めた。 1995年にヤマハ卓球部が休部になったものの練習場を残し、そこで地域貢献で地元の選手を指導していた時に、修学舎の山本寛監督や愛み大瑞穂高の神谷卓磨監督、五輪金メダリストの水谷隼を指導した。 ◆ 水谷隼が小学2年の時に全日本ホカバ(ホープス・カブ・バンビ)で優勝して、両親がヤマハの練習場に彼を連れてきました。そこから彼がドイツに行く中学2年まで、一緒に練習していました。ヤマハ卓球部が休部になった後に地域貢献の活動として水谷隼の指導ができたわけで、今思えば偶然の出会いですね。 彼は小さい頃から何でもできる選手だった。最初に会った時から、この子はすごい選手になるなとは思いました。相手コートに入れることが驚くほどうまかった。ボールタッチが柔らかくて、ミスをしないし、ラケットに当たれば入るという天性の部分はあった。ただ、少し台から下がる傾向はあったし、練習はあまり好きじゃなかった。だからこそ1時間、2時間ぶっとおして練習していました。打球感覚は良いので、それをなくしてはいけない。その才能に努力することを付け加えようと考えました。 小学生の隼に戦術を教えたことはあまりなくて、まずは練習に飽きさせないでボールを打たせることがメインだった。また、彼はゲームが好きだから、厳しい練習をした後は必ずゲーム練習を入れたりしました。 そして隼が高校2年で全日本選手権一般で初優勝しましたが、あの優勝は1年くらい早いなと感じてました。前の年は松下浩二に負けたので、まだ優勝するのは2、3年かかるかなと思ったら翌年優勝した。 隼は小さい頃からダイヤモンドの原石だったのは間違いない。天才肌の選手というのは、何でもできるものだから努力することをせずに早くに消える選手もいる。最終的にチャンピオンになれないことが多いと思う。ダイヤモンドの原石として良いものを持っていても磨かなくては光らないから、隼にはとにかく練習をやらせました。彼が頑張って練習することが「原石を磨く」ことだったのです。 [いまふく・まもる ] 1955年11月8日生まれ、福岡県大牟田市出身。愛工大名電高ではインターハイの学校対抗で2度優勝。愛知工業大を卒業後、日本楽器(のちにヤマハ)に入社。全日本選手権男子ダブルス準優勝。ヤマハクラブではコーチとして水谷隼を指導した。2012年から静岡県の浜松修学舎中学・高校の総監督を務める
卓球王国 今野昇