松本清張と井上靖…戦後を代表する作家2人の接点に迫る企画展 初公開の書簡も
松本清張と井上靖-。戦後の日本文学を代表する2人の接点に迫る企画展が、北九州市の松本清張記念館で開かれている。清張が井上に宛てた書簡も初公開。40年近い交流から、井上を目標の一つとして歩み始めた、清張の作家としての軌跡も浮かび上がる。 【写真】清張が1990年1月27日に送った最後の手紙(初公開) 歴史小説「天平(てんぴょう)の甍(いらか)」などで知られる井上は、清張より2歳半上の1907年、北海道生まれ。大阪毎日新聞社の記者を経て文壇デビューした。 井上が42歳で芥川賞を受賞した50年2月、清張は40歳で、小倉の朝日新聞西部本社広告部に勤めていた。初めて書いた小説「西郷札(さつ)」が小説コンクールに入選するのはその年の12月。本展を企画した中川里志・学芸担当主任は「新聞社という同じ空気を吸った遅咲きの親近感から、清張は井上をエネルギー源にしていたのではないか」とみる。 2人が初めて対面したのは、清張の芥川賞受賞が決まった53年1月。同年5月ごろには講演会で小倉に来た井上の宿を清張が訪ねており、清張は<わたしの指標となったのは井上氏の『面白い小説』であった>と述懐している。 本展では清張が井上に宛てた54年以降の書簡8通(神奈川近代文学館所蔵、うち5通が初公開)を展示している。 1通目(54年4月)は、井上からの著書の寄贈に対する礼状。<作家としての鬱然(うつぜん)とした大樹を見る思ひがいたします 小生の愈々私淑(いよいよししゅく)申上げる次第であります>とあり、大きな尊敬が読み取れる。56年ごろ、井上から「あなたがまだ新聞社に居る意義はもうなんにもありませんよ」と声をかけられた清張は、社を辞めて創作活動に専念することを決意している。 書簡はその後、56年7月の3通目から68年8月の7通目まで1~5年おきに続き、食事や入院の見舞いなど家族ぐるみの交流があったことがうかがえる。 しかし最後となった8通目は90年1月27日付。7通目から22年もの歳月が流れていた。 中川さんは「清張にとって『頼れる人』は2人いた。井上と、もう一人は自分自身だった」と語る。 「点と線」(58年)「日本の黒い霧」(60年)「昭和史発掘」(64~71年)…。作家として大きな飛躍を遂げていく清張の年表をたどると、書簡の空白もうなずける気がする。 8通目は、清張の朝日賞受賞を祝う井上からの電話に対する礼状だった。<長らく御無沙汰(ごぶさた)いたしまして申訳ありません>。当時80歳。最後の手紙を、清張はどんな思いでしたためたのだろうか。 (川口安子) ◇企画展「松本清張と井上靖」は12月1日まで(月曜休館)。一般600円など。来場者には清張や井上の「名言しおり」を贈る。