寄稿「5mの橋で地球をまたぐ」 奄美大島宇検村とブラジルの百年 東京在住 池田泰久
奄美群島最大の移民を送り出した村
なぜ、奄美大島からのブラジル移民は宇検村が中心だったのか――。その答えは、渡さんらが編纂した『宇検村 ブラジル移民百周年記念誌』(2020年3月刊)に記されている。1918年9月、宇検村で初めての海外移民がブラジルに向けて出発した。最初に故郷を後にしたのは13家族54人。彼らは村を発ち、長崎港から讃岐丸で遥か彼方のブラジルへと旅立った。 当時の宇検村は、人口がピークに達していた。村全体で1292世帯9355人、1戸あたりの人口は7・24人と、奄美大島の中でも特に高かった。しかし、村の90%ほどは山地であり、平地は極めて少なかった。農家1戸あたりの耕地面積はわずか0・27反。これは島内でも最も少ない面積であり、村は食べるものにも事欠く時代を迎えていた。今年7月末現在の村の世帯数が958、人口が1595人であることを考えると、当時の人口過密とそれに伴う生活の困難さがどれほど大きかったかが伺える。 渡さんはその時代の村の決断についてこう語る。「村長は、この困難を乗り越える手段として、海外移民を解決策と見たようです。特に宇検村の場合、村長が移民会社の担当者と直接交渉を行ったことが大きな特徴でした」。センター内の歴史民俗資料室には、当時の移民会社「海外興業株式会社」の熊本市出張所の業務代理人が村長に宛てた書状が展示されており、その時代の苦渋の選択を今に伝えている。 研究論文「奄美とブラジル移民」(田島康弘、1997年)によると、宇検村からのブラジル移民は戦前に73世帯440人であり、鹿児島県内の市町村の中では坊津町、枕崎市に次いで3番目に多かった。戦後は12世帯52人がブラジルに渡り、合計で85世帯492人に達した。これは奄美群島全体の56・4%と圧倒的多数を占めていた。その中でも、湯湾集落からの移民が最も多く、村全体の約6割がこの集落に集中していた。 一方、同記念誌によると、島東部の龍郷町(当時は龍郷村)では、1918年当時、1戸あたりの人口は宇検村に次ぐ7・03人と高水準でありながら、農家1戸あたりの耕地面積は1・16反と島内で2番目に広かった。単純に結論づけるのは難しいが、龍郷町では宇検村ほど深刻な生活苦には見舞われず、移民の必要性もそれほど高くなかったのかもしれない。実際、龍郷町からの移住者は戦後の3世帯17人に限られている。 宇検村と龍郷町は、島のほぼ両端に位置しており、車でわずか1時間強の距離に過ぎない。しかし、その間には急峻な山々がそびえ、かつては宇検村を含め、「陸の孤島」と呼ばれた集落が多く点在していた。トンネルが今ほど整備されていなかった時代、他の村や集落の情報を得ることは容易ではなかったはずだ。宇検村から名瀬地域に向かうのも船で1日がかりのことだったという。 冒頭の島民のご夫婦が島内のブラジル移民についてあまり知らなかった理由には、地域による移民の数の極端な差異に加え、こうした地理的な隔たりも関係しているのかもしれない。