知られざる限界分譲地のトラブル。沼地を開発した第三セクター・秋住事件の顛末と、今なお続く難あり土地の宅地開発とは
限界分譲地 繰り返される野放図な商法と開発秘話 #3
日本全国の「所有者不明土地」の面積をすべて合わせると、国土の22%を占めるという衝撃のデータがある。都心の分譲マンションの価格が高騰し続けるいっぽうで、田舎には多くの問題を抱える土地が広がっている。 【写真】地盤沈下の痕跡が生々しく残る空き家の基礎
書籍『限界分譲地 繰り返される野放図な商法と開発秘話』より一部抜粋し、1998年に秋田で起きた住民訴訟を例に地方の土地問題を紹介する。
第三セクターへ総額7億円の損害賠償請求
1998年8月7日、秋田地方裁判所において、あるひとつの住民集団訴訟が提起された。原告は、秋田県からは遠く離れた千葉県山武町(現・山武市)の住民24名。被告は、秋田県、秋田銀行、北都銀行、そして、秋田杉の需要拡大を目的に1982年に設立された第三セクター「秋田県木造住宅株式会社(秋住)」(93年に経営再建を目的に、事業を子会社の「株式会社秋住」に移譲)の取締役や監査役など元幹部15名に及ぶ非常に大掛かりな住民訴訟であった。 のちに「秋住事件」として知られることになるこの住民訴訟は、提訴より遡ること8年、1990年より2年半ほどの間に、秋住が旧山武町にて開発した分譲地の建売住宅で、ことごとく地盤沈下や施工不良などの欠陥・不具合が発生し多大な損害を被ったとして、その購入者が共同で秋田県に対し総額7億円余の損害賠償請求を行ったものである。 施工会社である秋住は、バブル崩壊後より経営状況が悪化し多額の負債に苦しみ、その提訴より半年前の98年2月、すでに子会社と共に東京地裁において破産決定がくだされていた。いわゆる第三セクターは厳密には公的機関ではないのだが、原告側住民の主張によれば、販売パンフレットに当時の県知事が顔写真付きで推薦の言葉を寄せていたり、「秋田県が母体の企業」などと記載したりと、県自ら秋住の運営母体が秋田県であると誤認誘導させる役割を担っていたという。 欠陥住宅をめぐるトラブルはメディアでも定期的に報じられており、過去幾度となく訴訟も行われている。 ところが欠陥住宅をめぐる紛争は、建築士が申請書類を偽造して摘発されるケースはあるものの、刑事事件ではないため施工不良によってその施工業者が刑事罰に問われる事例がない。そのため一時的に注目は集めても、やがて時間の経過とともに風化してしまうのが常であった。 しかしこの秋住事件に関しては、第三セクターという、ある種公的な側面を持つ事業体が引き起こしたトラブルであり、なおかつ県を代表する銘木である秋田杉のブランドイメージを毀損しかねないスキャンダルということで、訴訟当時は秋田県内でも大きく問題視された。秋田県内では、事態を重く見た有志によって被害者の住宅の修復工事を無償で行うボランティア団体が発足し、秋田県はその団体に費用の助成を行っている。 それにしても、事件の舞台となった旧山武町もまた「山武杉」と呼ばれる杉の一大産地として知られた町であり、今も町内には広大な杉林が広がっている。なぜ秋住はよりによってそんな杉の名産地で秋田杉の拡販を企図したのか、今もって謎のままだ。 おそらく単純に、当時の旧山武町の地価の安さのみで立地が選定されたもので、率直に言って秋田杉の拡販については、どうでもよかったとまでは言わないが、優先順位は低かったのが実情ではないだろうか(秋住の住宅はコスト削減のため、秋田杉ではなく安価な集成材が使用されていたと報じたメディアもある)。秋住の建売住宅販売が開始された1990年当時は、すでにバブル期の勢いは減速し始めていたが、地価は依然ピークに近い状態にあった時期である。 秋住の分譲地は、住民訴訟から25年が経過した今も現役の住宅地として利用されている。いずれも戸数は20~30戸程度の小規模な分譲地であるが、90年代以降の分譲地なので、1970年代の分譲地のような、車両のすれ違いも難しい狭い道でもなく、一見すると旧山武町のどこにでもあるミニ開発の住宅地のように見える。