「ママ、ビンタお願いします」と同居人に言われ…3歳の娘が虐待死「鬼母が裁判で明かした」悲しい顚末
「(事件当時)同居していたAさんから『子供のしつけができていない』としきりに愚痴を言われていました。『子供のしつけはお母さんにしかできない』と指摘され、それからはAさんに『ビンタをお願いします』と言われるままに娘に手を上げるようになったのです……」 【写真】何度もビンタして…児童虐待で娘が死亡「暴力母の戦慄素顔」写真 命を奪うほど娘に暴力を振るうようになったのは、同居していた元競輪選手の愚痴が原因だった―実母は裁判長の前でそう告白した。 「実母」とは埼玉県春日部市の自宅で両足を骨折した娘の沙季ちゃん(当時3歳)を放置し、顔を殴ったなどとして、保護責任者遺棄と傷害の罪に問われた長野奈々被告(33)である。 沙季ちゃんは’21年12月29日に意識不明の状態で救急搬送されたが、まもなく脳損傷で死亡した。頭から足にかけて複数の箇所に古いあざと新しいあざがあったという。そして、両足の太ももの骨が折れていた。 翌日、長野被告は同居男性A(当時37歳)とともに暴行の疑いで埼玉県警に逮捕され、翌年1月に傷害罪で起訴。同5月9日の初公判後、同5月31日に保護責任者遺棄の疑いで再逮捕された。当のAは3月19日未明、春日部署の留置場で首を吊って自殺した。 ’19年から夫と別居し、長野被告は長女と次女の沙季ちゃんと3人で暮らしていた。家のローンは夫が支払っていたが、生活費は長野被告がカラオケ店で働きながらなんとか賄っていた。そんな長野被告と元競輪選手のAとの出会いは、’21年7月に40人ほどの男女が参加したパーティーだったという。その後、11月下旬ごろから長野被告の自宅でAも同居するようになった。 ’23年11月17日から再開された公判のなかで、長野被告はこう供述している。 「同居により出費が増え、無理にシフトを入れて仕事をしていました。休みの日は疲れてほとんど寝るだけ。仕事から帰宅しても、子供たちに会うのは食事の際の1時間ほど。後片付けをして、そのままソファーで寝てしまうような生活をおくっていました」 子供たちは保育園に登園しなくなり、Aが自宅で面倒をみていたという。 もともと「話しかけても無視されたり、そっぽを向かれたり、真剣に向き合ってくれなかった」と長野被告は沙季ちゃんのしつけに悩んでいたが、「私も小さいころ母親に暴力を振るわれていたので、手を上げることだけはしないようにしていました」と暴力の連鎖はなんとか思いとどまっていたという。 しかし、Aから「子供のしつけができていない」と何度も指摘され、さらに「『かつて母親に暴力を振るわれたあなたがいて、いまのあなたがある』と言われたことから、しつけに暴力を用いないというのは間違っているのではないか」と思うようになり、Aに「ビンタ、お願いします」と言われるたびに何発も沙季ちゃんにビンタをするようになった。 検察官の冒頭陳述によると、沙季ちゃんは12月19日にAが振るった暴力によって骨折していたとみられる。 「12月19日、Aが被害者の両足をつかんでV字に開脚させ、臀部を叩くなどの暴行におよんでいます。被告人はAにたいし、『大丈夫なの? それ、骨が折れちゃうんじゃない』と声かけをしております。そして21日、被告人は被害者のオムツを交換している際に、被害者の右足のひざから上が腫れていることに気づき、Aにたいして『足、大丈夫なの』とたずねました」(検察官) すでに引退していたとはいえ、Aはもともとプロのアスリートだ。その鍛えられた体で振るわれた暴力は、とうてい3歳の女の子が耐えられるものではなかっただろう。 実母による暴力は12月23日にも振るわれた。バイト先から帰ってきた長野被告は、Aから「沙季ちゃんが姉に意地悪をした」と聞かされた。叱っても沙季ちゃんが謝らなかったため、暴力を振るいはじめた。 「Aさんに『ママ、ビンタお願いします』と言われ、両頬にビンタしました。合計10回くらい叩いたと思います。それでも謝らなかったので、髪の毛をつかんで床に押しつけたり、右足や背中を蹴ったり、お尻を叩いたりしました」(長野被告) 沙季ちゃんへの暴力はそれで終わらなかった。Aが沙季ちゃんのお尻をむきだしにして足をV字に開脚させ、さらに10発ほど叩いたのだ。二人による暴力は、沙季ちゃんが「ごめんなさい」と謝るまで続いた。 12月29日、病院に運ばれた沙季ちゃんの顔には新しい傷があった。長野被告がAに傷についてたずねると、「階段から落ちたんじゃない。知らんけど」と答えたという。 逮捕後、警察の取り調べに「娘はケガで歩けないので、お尻をずって移動していた」と話していた長野被告だが、公判では「歩けないほどのケガをしているとは思わなかった」と供述をひるがえした。保護責任者遺棄には当たらないと主張したのだ。 被告人質問では、弁護人の「足が折れていたことを知ったのはいつか」という質問に、「29日に病院で初めて知りました」と答え、「オムツを交換したときに足が腫れていることに気づきましたが、むくんでいるのかなと思う程度で、すぐに病院に連れていく必要があるとは考えませんでした」と主張。そして、「Aさんが娘たちの面倒をみてくれていると思っていました。もっと私が目配りするべきだったと後悔しています」と顔を覆いながら号泣した。 しかし、検察官が質問をはじめると態度が一変。口元をゆがめながら、「いまは回答を控えさせていただきます」「コメントを控えさせていただきます」と拒否することもあった。「仕事が忙しくて、娘たちが椅子に座って食事をしている姿しか記憶にない」と述べ、そもそも、沙季ちゃんが歩けないことに気づく機会がなかったと開き直った。検察官からは「Aが死んだから、全部、Aに押し付けようとしているのでは」という質問が飛んだ。 12月25日の論告・弁論で、検察官は懲役2年6ヵ月を求刑。弁護人は、「歩けないほどのケガで、治療が必要だとの認識はなかった」と保護責任者遺棄については無罪を主張し、執行猶予付きの判決を求めた。 そして迎えた2月26日の判決公判。金子大作裁判長は、「激しい痛みをともなう骨折を長時間放置するなど、犯行態様は悪質」と、長野被告に懲役2年を言い渡した。 11月17日の公判のなかでは、検察官によって長女の供述調書が読み上げられた。 「(沙季ちゃんが亡くなった日の)朝、妹の『足が痛い』という声で起きました。妹は足が痛くて立てないので、いつもハイハイしていました。Aは筋肉があるので、妹は何回もお尻を叩かれては泣いていました。妹の最後の言葉は『明日、おりこうさんにするね』でした」 顔を覆い、泣きながら聞いていた長野被告。しかし、実刑判決を受け、被告人席に戻った長野被告は、癖なのだろうか、何度も口元をゆがめていた―。 取材・文:中平良
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