「カースト上位女子」が人をいじめる理由は? 他人へのイライラを手放す禅の考え方
解説:まずは自分が仏であることに気づこう
これは禅問答としてとても有名なものです。「犬には仏性(仏としての本質)が有りますか?」という弟子からの質問に、趙州和尚は一人の僧には「有る」、他の僧には「無い」と、相手によって回答を変えています。 どっちやねん! と突っ込みたくなりますが、禅問答とはそういうものです。質問した本人が「そうなんだ!」と納得できる答えが正解となるため、「これならマル!」という答えが、その都度変わるのです。難しい問答なので、ここからの解説も少々難しくなりますよ......。
2人の弟子の質問
『涅槃経』という仏教経典(お経)があります。禅の修行僧にとっては教科書や辞書のようなものでしょう。 それには「一切衆生には悉く仏性有り(すべての生きものは、すべて仏性を持っている)」と明確に書いてあります。なので、最初の僧の質問に「有る」と答えるのは、趙州和尚がまさに教科書通りの回答をした、ということになります。 さらにその僧が質問を続けます。「犬には仏性が有るというのに、なぜあんな毛むくじゃらな獣の姿形をしているのですか」と。 「なぜあんな姿なのか=なぜ人間の形をしていないのか」というのは、人間から獣を見下した意見ですね。この修行僧は、犬よりも人間のほうが立場は上だという優越感にもとづいて質問しています。 「すべての生き物には仏性が有る」という教えをまったくわかっていない勘違いの質問です。それを遠回しに戒めるように、趙州和尚は「犬はわかっていてわざとあの姿をしているのさ」と答えます。つまり「お前より上だ」と。 続いて別の修行僧が同じ質問をしたときには、「無い」と答えています。この修行僧からは「だって教科書に書いてあるのに、どうして師匠は無いと言うんですか!」と突っ込まれます。 それには「犬には迷いの心があるからだ」と答えて導きます。犬には代々積み上げられた迷いの心があるから、仏になることを遠慮しているのだ、と。
弟子は自分に向き合うべきだった!
この対話の内容だけを捉えると、わかったようなわからないような、中途半端で腑に落ちない感じがしますね。これで「フ~ン、そういうことなんだぁ」で終わってしまうと、この禅問答から導き出される教えの本質を見失うことになります。 この二つの問答からわかることは、この僧たちがそもそも獣など、「自分以外のもの」の仏性の有無を、分析の対象にしてしまったことに誤りがあります。 禅には「自分自身の仏としての本質に気づく」という大命題があります。本来、この修行僧たちは自分の仏性と向き合わなければならない立場なのに、そもそもこんな質問をすること自体が、理解しなければならない道理に対して逆を向いてしまっています。 なので趙州和尚は、この二人の僧の質問に、ハナッから真面目に答えるつもりはありません。自分の質問の愚かさに気づかせようとしているのです。 「自分の仏性すら掴んでもいないのに、それを棚に上げて犬の仏性を問題にしてどうするバカタレが」と。