【Playback箱根駅伝】第21回/日大完勝で5度目の栄冠 6区間で区間最高の圧倒的強さ
2024年に箱根駅伝は第100回大会を迎える。記念すべき100回に向けて、これまでの歴史を改めて振り返る『Playback箱根駅伝』を企画。第1回大会から第99回大会まで、大会の様子を刻んでいく。(所属などは当時のもの) 第21回箱根駅伝総合成績をチェック
第21回(1940年/昭和15年) 山上り6度目の鈴木房重が往路Vのフィニッシュテープ 復路も首位を譲らず
戦時色が強まる中、早大、慶大、明大、立大が不参加となり、10校で行われた。 すでに日中戦争が始まってから3年が経っており、伴走できる車の数なども制限。それでも、選手たちは必死にタスキをつなぎ、また沿道でもファンが声援を送っている。 レースは前年に5連覇を阻まれた日大が強さを発揮する。1区の郷野喜一が区間賞を獲得する絶好のスタート。2区で東京文理科大に先頭を譲るが、3区の大沢竜雄で首位を奪い返す。 4区の手島弘信が区間賞の快走で、2位の専大との差を47秒から6分16秒に広げた。5区では6度目の出走となる鈴木房重が区間2位でまとめて2年ぶりの往路優勝。前回優勝校の専大に10分18秒の大差をつけた。 復路でも日大の独走は続く。6区・渡辺安雄、7区・片岡忠司、9区・永野常平、10区・小島武雄が区間賞を獲得。2位の東京文理科大に31分59秒の大差をつけ、2年ぶり5回目の優勝を果たした。3位は中大、連覇を狙った専大は復路で順位を2つ落として4位に終わった。 また、東京文理科大の3区には1年生の高橋進が出場。高橋は戦後の1952年ヘルシンキ五輪に出場したほか、指導者として辣腕を振るい「日本マラソン育ての親」とも呼ばれた。 政府や軍部などから多くの制限を受けながらも行われてきた箱根駅伝だが、この大会の後に戦火がさらに拡大。コースとなる東海道と箱根路が軍需物資の輸送のため使用不可能となり、大会は翌年以降、中止を余儀なくされてしまった。しかし、関東学連は、1941年1月12日に東京―青梅間(8区間、107km)で「東京青梅間往復大学専門学校鍛錬継走大会」という大会名で代替レースを実施。さらに同じ年の11月に翌年の大会を繰り上げる形で青梅往復の2回目の代替レースが行われ、いずれも日大が優勝した。 代替レースは箱根駅伝に含まれない非公式大会であるため、正規の大会にはカウントされていない。しかし、スポーツの全国大会が全面禁止となる非常時の中で大会開催にこぎつけた当事者たちの情熱と努力は後世に受け継がれていくべきだろう。 参考文献:箱根駅伝90回記念誌(関東学生連盟)
月陸編集部