夏の甲子園でホームラン→六大学で主将→JTB退職「アマ野球引退後、社会人の安定」を捨てて…JICAでドミニカ野球にホレた43歳の人生
高校野球や大学野球などアマ時代に好成績を残しながらプロの道へと進まない人物は、どんな人生を歩んでいるのか。筒香嘉智が世界の野球に目を向けるきっかけを生んだ人物の1人、阪長友仁氏(43)に話を聞いた。(全3回の第1回) 【貴重写真】大谷17歳ガリガリ…なのに特大ホームラン、17歳なのに貫禄がスゴい筒香。まるで別人みたいに細い柳田、ヤンチャそうな学ラン姿の張本、実は投手だった王さん…名選手160人超の高校時代を見る 阪長友仁氏は、野球指導者というよりは、野球界そのものの変革を志している野球人だ。「イノベーター」という表現が良いのかもしれない。
文武両道を目標に、大阪から新潟へ
阪長氏は1981年生まれ。「松坂世代」の1学年下だ。 「大阪府の北東部にある交野(かたの)市の出身で、小学1年生から少年硬式野球のボーイズリーグのチームに入りました。1学年数人という規模で、大阪最弱じゃないかというくらい弱いチームで、それだけに投手も野手もいろいろやりました。小学校1年の2月から中学3年までですから、8年以上もやっていたんですね」 中学3年で、阪長少年は「甲子園」を意識する。 「当時の大阪では上宮、PL学園、近大付属などに行かないと、甲子園には行けない可能性が強い。自分の実力ではそんな学校からスカウトされるはずもない。僕は、甲子園にはいきたいと思ったけど、野球は高校まで。あとは勉強して大学に行って、パイロットか航空管制官になりたいという夢もあった。それを考えると文武両道の学校に行くべきで“大阪を出ないと”と思ったんです」 一般的な「野球留学」とは少し違う動機のように思えるが、学校案内などを探して、新潟県の新潟明訓高校に行きついた。 「僕が中学3年の時、センバツに新潟明訓が出場していました。この学校は、同時に進学校でもあったんですよ。それを知って、これなら甲子園に行って勉強で大学にも行けると思って連絡をしたんです。でも当時の新潟明訓は、県外からきている生徒は全くいなかった。だから『ここは大阪から来るような学校じゃないですよ』と言われたんですが、入試を受けて合格しました」
母からは「地元の高校も受けなさい」と言われたが
両親ともに地元交野市の公務員。父親は何も言わなかった。母は「地元の高校も受けなさい」と言ったが、自分の希望を押し通した。 新潟明訓高は、佐藤和也監督(現新潟医療福祉大総監督)が就任してから強くなり、この時点で夏2回、春1回、甲子園に出場していた。 「佐藤先生は、自分の高校はもちろん、新潟県全体の野球を強くしようという意欲があって、すごく熱心に指導していただきました。最初の頃は投手をしていたんですが、2年の春に関東遠征に行って僕が投げた。だけど東京の公立高相手に1イニングで11点取られたんですよ。 翌日は試合組から外されて練習組になったんですが、勝手に外野ノックを受けに行った。『何をしてるんだ』と言われて『僕、これから外野やります』と言って、そこから外野手になりました」
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