夏の甲子園でホームラン→六大学で主将→JTB退職「アマ野球引退後、社会人の安定」を捨てて…JICAでドミニカ野球にホレた43歳の人生
夏の甲子園でホームラン…北大に行くつもりだったが
阪長氏はここから頭角を現し、試合に出場するようになる。 2年生のときは強打の捕手、加藤健(のち巨人)がいた新発田農業が強くて、新潟明訓はベスト4だったが、翌年夏の甲子園に出場を果たす。 「この年はノーシードだったんです。みんな自分たちの代は強くないと思っていたんですが、1回戦から勝ち進んで、甲子園出場が決まりました。僕はバッティングの技術は大雑把でしたが、足はめちゃめちゃ速かった」 その甲子園1回戦で、阪長氏は宇和島東高の大星圭史から本塁打を打つ。しかしチームは2回戦で旭川実業に敗退した。 これで阪長氏の高校野球は終わった。もともとの計画では、ここから受験勉強をして北海道大学に進むつもりだった。だから大学野球部からの推薦の話は全部断っていたのだが、勝ち進む中で阪長氏の気持ちに変化が現れた。 「高校でやめるつもりが、野球って楽しいな、と思い始めて、監督室に行って『やっぱり大学でも野球やります』と言ったら『今からどうするんだ! みんな断ったぞ』と怒られましたが、指定校推薦制度で立教大学を受験して、入学したんです」
“和田毅が打てなくて”右打ち→左打ち転向
立教大学硬式野球部の監督は、阪長氏が入学した2000年に就任した斎藤章児監督(2019年没)。1学年上にPL学園のエースだった上重聡、のち日本ハムに進む多田野数人などの有力選手がいた。ただし対戦相手にも、今もなおプロの一線級で投げ続けるサウスポーがいた。 「1年秋からベンチに入れてもらって、2年生からは試合に出させてもらっていたんです。3年になって春の開幕戦は早稲田大でした。僕はスタメンで、和田毅投手と当たったのですが、3打席連続で3球三振して、斎藤監督に『お前はもう使わない』と言われた。おそらく発破をかける意味で言ったのだと思うんですが……。 僕も、このまま努力しても和田投手みたいな投手を打てる気がしなかった。今、思えば僕は高校時代そのままの金属バット打ちが身についてしまって、木製バットのインサイドアウトのスイングができていなかった。それで、僕は右打ちから左打ちに転向しようと思ったんです」 左投手の和田毅が打てないからと言って、左打者に転向する――阪長氏はこれまで一度も左で打ったことがなかったのに、突然そう決心する。 「最初は、置きティーでさえも空振りする始末で、監督も『お前、何してるんだ。早く右で打て』と言ったんですが、僕は『監督がもう使わないと言うから、僕は左で打つんです』と言って、そのまま左打ちを続けてたら、3年秋にスタメンを勝ち取って公式戦に出場した」
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