引退発表・伊東輝悦と「マイアミの奇跡」舞台裏(1)「全力で走り続けてきた」50歳の少年時代と、トルシエ会見で知った悲劇、もたらした28年ぶりの出場
■王国育ちの「U-12日本代表」エース
私が初めて伊東を知ったのは、1986年夏に日本で開催された少年サッカーの国際大会のときだった。その大会に向けて「U-12日本代表」が組織されたのが、そのチームのエースが伊東だった。当時、彼は「大型FW」だった。清水育ちらしいテクニックとスピードをもち、そのスピードに乗ったまま放つシュートは間違いなく「超小学生級」だった。 しかし、私はこの選手の将来性に小さからぬ不安を感じた。12歳にして(まだ12歳の誕生日は迎えていなかったが…)あまりに出来上がってしまっていたからだ。彼はすでに大人の体つきのように見えた。それを大きな武器にしていたのだが、同年代の選手たちも、やがて中学や高校で急激に身長が伸び、体が大きくなる。いずれ目立たなくなってしまうのではないかと心配したのだ。 だが、それは杞憂だった。彼は、ただ体格やスピードでプレーしていたわけではなく、ずばぬけたサッカーセンスとサッカー頭脳の持ち主でもあったからだ。サッカーというゲームを知り尽くした伊東は、まさに「サッカー王国」清水が輩出した最高クラスのサッカー選手だったのだ。 東海第一高校時代には全国大会出場には恵まれなかったが、国体の静岡県代表として大活躍、卒業後に清水エスパルスでプロとなった。1993年春のことである。当時のJリーグは、若手選手を中心にした「サテライトリーグ」を公式の大会として開催していたが、伊東も最初はその一員としてプレーした。年末には2試合でトップチームのベンチ入りを果たしたが、出場機会はなかった。
■Wエース小倉隆史、前園真聖とともに
Jリーグ・デビューは2年目、1994年の「サントリーシリーズ(第1ステージ)」第21節、6月11日に日本平で行われたG大阪戦(4-1の勝利)だった。3-0のリードで迎えた後半33分にゲームメーカーの澤登正明に代わって出場した。 だが、「ニコスシリーズ(第2ステージ)」に入る前に、監督がエメルソン・レオンからロベルト・リベリーノに代わると、伊東はコンスタントにベンチに入るようになり、9月には4試合連続先発出場を果たす。そして翌1995年、20歳の伊東は完全なレギュラーとなり、清水に欠くことのできない存在になるのである。 それとともに伊東が活躍を始めたのが、1996年アトランタ・オリンピック出場を目指す戦いだった。このチームには、小倉隆史(名古屋グランパス)、前園真聖(横浜フリューゲルス)という圧倒的なエースがいたが、すぐに伊東も欠くことのできない存在となっていく。 1996年3月のオリンピック予選では、全5試合にフル出場。生まれ持ってのポジションセンスでチームをまとめ、実に28年ぶりのオリンピック出場を日本にもたらした。
大住良之
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