キューバ国民は米国との国交正常化を歓迎しているの?
米オバマ大統領とキューバのラウル・カストロ国家評議会議長の会談が4月11日、実現しました。両国の首脳会談は、実に半世紀ぶり。国交回復に向けた「歴史的な第一歩」と伝えられます。世界の眼があつまるキューバ。この3月、首都ハバナから東端のバラコアまで7都市をまわり、人びとの暮らしをのぞいてきました。2週間の現地訪問をもとに、キューバの「いま」をお伝えします。 【地図】イチから分かるキューバ なぜ米国と国交が途絶えた?
◆キューバが社会主義を選択した理由は?
キューバは社会主義国家です。地方都市を歩いても、ゲバラを筆頭とする革命指導者の肖像画や党のスローガンが目に飛び込んできます。ただし、ニュース映像で伝えられるほど、街のあちこちに掲げられているわけではありません。商品広告の看板やネオンサインがないため、目立ってしまうのですね。日本も広告・看板を外すと、政党のポスターだらけに感じるかもしれません。 キューバ革命を主導したフィデル・カストロは、1961年にアメリカと国交を断絶し、社会主義による国づくりをスタートさせました。フィデルはがちがちのコミュニストではありませんでしたが、資本主義が生んだ腐敗や貧困を克服できる選択肢は社会主義しかなかったのでしょう。接近してきた社会主義の「親玉」ソ連と手を握ったのです。 しかし20世紀終盤、中国が資本主義に舵を切り、1991年にはソ連も解体され、社会主義はオルタナティブではなくなりました。そんな中でも、キューバは革命の「理念」を棄てることなく、社会主義を堅持し続けてきました。平等の「理念」だけは、世代を超えて国民にもビルトインされています。国際社会に対しても、キューバは反米連合の「兄貴分」としての存在感を示してきました。
しかし、革命の「理念」は豊かな暮らしを実現してくれませんでした。とりわけソ連解体後の90年代前半は停電が頻発、商店は常に品薄、朝夕の食事もこと欠く状況だったといいます。いまもモノ不足は深刻です。最低限の生活用品はあるものの、その種類は限られています。乾電池ひとつ探すのにも苦労します。それでも国民は、革命以前の惨状と比べながら、「だれもが程よく貧しい」という落としどころの平等に耐えてきたのです。「アラブの春」のような大規模な政権打倒の動きも起こっていません。「忍耐」の2文字も、キューバ国民にビルトインされているのです。