「霊界の宣伝マン」丹波哲郎が制作した映画『大霊界』。29歳新人プロデューサーの奇妙な“居候”体験
---------- 『日本沈没』『砂の器』『八甲田山』『人間革命』など大作映画に主役級として次々出演し、出演者リストの最後に名前が登場する「留めのスター」と言われた、大俳優・丹波哲郎。 そんな丹波が、「霊界の宣伝マン」を自称し、中年期以降、霊界研究に入れ込み、ついに『大霊界』という映画を制作するほど「死後の世界」に没頭した。なぜそれほど霊界と死後の世界に夢中になったのか。 数々の名作ノンフィクションを発表してきた筆者が、5年以上に及ぶ取材をかけてその秘密に挑む。丹波哲郎が抱えた、誰にも言えない「闇」とはなんだったのか――『丹波哲郎 見事な生涯』より連載形式で一部をご紹介。 ---------- 霊能者からの助言を受け入れ、素人をプロデューサーに! 丹波哲郎『大霊界』の真実
29歳の新人プロデューサー
『大霊界』の制作を丹波本人から依頼されたとき、坂美佐子にはプロデューサーの経験がまったくなかった。それどころか、プロデューサーがどんな仕事をするのかさえ知らない。にもかかわらず丹波は、「おまえにできないわけないよ」と、いたって気楽な調子で持ちかけてくる。 「オレが映画やテレビの仕事で現場に行っても、プロデューサーなんて一緒にお茶飲んでるだけだよ。その程度の仕事なら、若い女のほうが喜ばれるだろう?」 当時29歳で、主婦にして一児の母親でもあった坂は、丹波に丸め込まれる形で、プロデューサー業に手を染める。「毎日、泣きながら仕事をするような日々」が待ちかまえていた。 その13年前、高校1年生のころから、坂は春休みや夏休み、ゴールデン・ウィークなどの期間を、杉並の丹波邸で過ごすようになった。 父が静岡ではよく知られた興行師で、丹波とは『キイハンター』のロケ地の斡旋や麻雀を通じて知り合い、家族ぐるみの親交を深めた。自宅には歌手の森進一や五木ひろし、前川清らもよく出入りしていた。昔気質の父から、丹波夫妻のもとでの“行儀見習い”を勧められ、丹波も快諾したので、「地方出身の私が、いきなりすごい世界に入っちゃった」と坂が回想する、奇妙な“居候”体験が始まる。 中央線の西荻窪駅から歩いて5分余りのところにある丹波邸は、びっくりするほど広大だった。700平米もある敷地には、杉並区の「保護樹木」にも選ばれた松の大木が聳(そび)え立つ。丹波の豪邸前の、吉祥寺方面へと向かう公道は、いつしか「丹波通り」と呼ばれるようになっていた。