日本の半導体の凋落招いた「日米協定」の無理難題。1986年の締結前は“日の丸半導体”が世界を席巻していたが
第1次協定の主な内容は、 ・日本の半導体市場の海外メーカーへの開放 ・日本の半導体メーカーによるダンピングの防止 というものでした。前者に関しては第2次協定で明文化された、「日本の半導体市場における外国製半導体のシェアを20%以上にすること」との密約があったとされています。 しかし、1989年の半導体世界シェアのメーカー別の順位を見てもわかるように、NEC、東芝、日立、モトローラ、富士通、TIと、依然として日本メーカーが上位を占めていたため、1991年に締結された第2次協定では、上記20%以上との数値目標が、第1次協定からのダンピング防止条項に加えて明記されるに至りました。
この協定により、日本の半導体メーカーの現場でどんなことが起きていたかは、おそらくその場に身を置いていた関係者以外、知ることはないでしょう。 そこで、筆者自身、辛酸をなめるに至った舞台裏を記しておくことにしましょう。 ■無理難題を押し付けられた、まさに「不平等条約」 まず日米両政府が日本の半導体メーカーに対し、半導体製品の「コストデータの提出」を求めるようになりました。 いわゆるFMV(Fair Market Value:公正市場価格)を算出するためという名目で、当時、担当者だった筆者たちはどのような対応を余儀なくさせられたか。
一日の終業時に「ラインで流れた個々の製品にどれくらいのリソースを掛けたかの報告義務」を課せられるようになりました。多くの半導体工場では、異なる製品が同じラインで製造されています。 このため、製品ごとにそれぞれのプロセスで使用される装置や材料、あるいは作業に掛けた人件費の割合(賦課率)などを算出するというのはたいへんな労力です。 そもそもDRAMで日本メーカーが圧倒的シェアを占めているのは「ダンピングによる安売りをしているためでは?」との疑いから、「日本の半導体の価格はアメリカ政府が決める!」という、とんでもない取り決めだったといえるでしょう。