武田鉄矢「福岡に生まれていなかったら歌なんて歌ってなかった」、海援隊の50年で振り返る音楽と芝居の“負けの美学”
武田鉄矢が原作・脚本・監督(2作目から5作目までの4本)・主演を務めた映画「プロゴルファー織部金次郎」シリーズ。プロ生活17年間で1勝もしていない中年ゴルファーの織部金次郎が、下町の人情に後押しされ、一念発起してトーナメントに挑戦するという物語。’93年公開の第1作「プロゴルファー織部金次郎」をはじめ、「プロゴルファー織部金次郎2 パーでいいんだ」「プロゴルファー織部金次郎3 飛べバーディー」「プロゴルファー織部金次郎4 シャンク シャンク シャンク」、そして’98年公開の「プロゴルファー織部金次郎5 愛しのロストボール」までのシリーズ全5作が、6月4日から2週連続でBS松竹東急(全国無料放送・BS260ch)にて一挙放送される。さらに、2023年4月に東京・日本橋三井ホールで行われた海援隊のデビュー50周年を記念したメモリアルコンサートも6月9日に放送が決定。「母に捧げるバラード」「贈る言葉」「思えば遠くへ来たもんだ」といった代表曲から最新曲まで、海援隊の集大成的なステージとなっている。まさに“武田鉄矢まつり”ともいえるスペシャル放送期間を前に、武田鉄矢にインタビューを行い、映画「プロゴルファー織部金次郎」シリーズ、海援隊50周年記念コンサートについてのエピソードなどを聞かせてもらった。 【写真】”織部金次郎”より、若かりし頃の阿部寛と武田鉄矢 ■「織部金次郎」制作秘話…「バブルがはじけた時代に“負け”との折り合いを描きたかった」 ――「プロゴルファー織部金次郎」は、「刑事物語」に続くシリーズものでしたが、このシリーズにどのような思い入れがありますか? 何故に“ゴルフ”に目をつけて、パッとしないゴルファーを主人公にしたかったのか。それはいまだに分かっておりません(笑)。ただ一つ言えるのは、始まったのがちょうどバブルがはじけた頃なんです。そういう時代に、「“負け”とどう折り合いをつけていくか」ということを描きたかったんです。妻に逃げられ、子どもたちも寄りつかない。そんな景気の悪い人物ですが、“負け”と上手に折り合いをつけて、その意味を人生の中から掴み出すことによって、自分のエネルギーにしていく。そういう“負け方”をゴルフという、私とは最も遠い競技の中で演じたかったんじゃないかなって。今思えば…ですけれど。 ――今だからこそ、そういう意図を感じ取れたということですね。 はい。あと、何にでも原型というものがありますが、この作品を作った時のイメージは「フィールド・オブ・ドリームス」だったんです。 ――ケヴィン・コスナー主演の? そうです。「フィールド・オブ・ドリームス」の持っているスピリチュアルなものが勝負事に一枚入ってきて、いわゆる“幽霊ストーリー”みたいな感じです。当時、プロゴルファーの中嶋常幸さんにゴルフに関するお話をいろいろと聞かせてもらいまして、ゴルフトーナメントにおいて、ゴルファーたちの“精神面でのケンカ”がどれだけ凄まじいかを知ることが出来ました。敢えて名前は挙げませんが、若いプロゴルファーたちと回っていたベテランゴルファーの話です。自分の球は若い人たちのように飛ばすことが出来ないので、自分が打つと走り出すんですって。そうすると、ベテランが走ったということで、若い人たちもそれに続けとばかりに走り出す。そういうふうにして若い人たちのペースを乱すっていう。それを聞いて、ゴルフはメンタル面での戦いでもあり、駆け引きも重要なんだと思いました。 ――メンタル面がスコアに影響するというのはよく聞きます。 ですよね。あと、中島さん自身の体験談として聞かせてもらったのは、お母様がお亡くなりになった直後くらいに北海道のトーナメントに出場された時の話でした。ゴルフって運も大きな影響がありますよね。その日、中島さんはお母様のことで頭がいっぱいで、いつものように集中できなかったらしいんですが、そういう時に限って運がいいというか、調子が良かったというんです。「曲げてしまった!」と思っていたら木に当たって跳ね返り、フェアウェイにボールが出てきたり。そんな感じでスコアも良いまま、17番ホールまで来て、グリーンの横を見たらそこにお母様の姿が見えたというんです。自分が幻影を見てるのは間違いないので、見ないように努力したけれど、18番ホールでも姿が見えて。でも「これを入れたら優勝できるから、おふくろ、いなくなってくれ。ごめんね」って言いながら、お母様の幻影に背を向けたって。そのエピソードは「フィールド・オブ・ドリームス」に重なるところがありましたし、スポーツにおいて“ゾーンに入る”という瞬間がありますので、それを映画で描くのもいいんじゃないかなと思いまして、そういう場面も盛り込みました。 ■負け続けた日々の対抗心「人生は8勝7敗でいい」 ――先ほど、「負けとどう折り合いをつけていくか」とお話しされていましたが、“負け”について、武田さん自身はどうお考えになっていますか? 僕自身、負けることはしょっちゅうありました(笑)。谷村新司と国鉄のCMソングを競って、勝ったのは彼の「いい日旅立ち」で、負けたのは僕らの「思えば遠くへ来たもんだ」でした。いやぁ、勝てると思っていたんですけどね。でも彼の歌は今も新幹線で流れていたりするんです。他にも昭和歌謡の天才たちに蹴っ飛ばされた経験も多々あります。西城秀樹さんの「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」に対抗して「JODAN JODAN」を作ったんですが全然届かなくて。あと、小椋佳が出てきてたくさんヒット曲を飛ばした時、彼の楽曲や歌声の“優しさ”に対抗して、“求めないで 優しさなんか”という歌詞を書いたりしたわけです。 ――「贈る言葉」のあのフレーズはそこから生まれてきたんですか!? はい(笑)。“優しさは臆病者の言い訳だ”って、僕らしいでしょ? そういうふうにいろんなものに対抗してきました。うつむいてばかりじゃダメですからね。 ――「プロゴルファー織部金次郎」の話に戻りますが、2作目からは監督もされています。監督経験で得たものは? はい、2作目から監督もさせていただいたんですが、自分には監督の才能はないです(笑)。本当にキツかったですね。でも、監督側からの見え方というのが分かりましたから、良かったことでいうと、それ以降、自分が出演する作品で監督に食ってかからないようにしようと思えたことですね。 ――2週にわたって一挙放送されますが、このシリーズの見どころと楽しみ方を教えてください。 負けとどう折り合うか。先ほどもお話しさせていただいたこれが大きなテーマになっております。負けを×(バッテン)にしないということですね。この頃、一番魅せられてセリフは「人生8勝7敗でいい」でした。「1つだけでも勝ち越していれば、お前はそこにいていいんだ」っていうことです。全部勝ちに行かなくてもいいんだと思えるだけでも気持ちが楽になりますから、このシリーズを見ていただいて、そういう気持ちになっていただけたらいいなと思ってます。 ■海援隊デビュー50周年、振り返ると数々の名曲も「対抗心」によって生まれてきた ――そして、「海援隊50周年コンサート ~故郷 離れて50年~」の放送もあります。 海援隊、楽しくやっております。メンバーは3人しかおりませんが、その中の2人は外科手術を体験してまして、高齢者の仲間入りです。私は心臓病、サイドギターの中牟田は食道がん。それでも生き残って、3人で地方にも行きながら歌ったりしていて、50年過ぎてから、だんだんと楽しくなってきました。ジジイになったおかげで、あまり罪のなすりつけ合うこともしなくなりましたので(笑)。 ――以前はぶつかることも? しょっちゅうでしたね。「ボロボロ間違えやがって!」と中牟田を叱ったり、千葉を叱ったり。自分がミスした時は「間違えちゃった!」と笑ってごまかしたり(笑)。最近はケンカしてませんね。最近、一番ウケたネタは、中牟田がフィンガリング、指で弾く演奏法なんですが、ミストーンがあまりにもヒドかったので、演奏を止めて「どうした?」って聞いたら、あいつ「指つった」って(笑)。割れんばかりの大喝采でした。僕らも歳をとりました。そういう出来事を笑ってもらえるというのもいいんじゃないかって思いましたね。 ――ミスしたことでギスギスした空気になるんじゃなくて、それによって会場全体が和む感じっていいですよね。 昔は対抗心とか反抗心とかがありましたからね。ライバルは、名前をあげるのも嫌がる方もいるんですけど、福岡時代には横にTULIPがいて、井上陽水がいて、すぐ下に甲斐バンドがいて、団塊の世代らしくギスギスと押し合いへし合いやっておりました。他にも九州にはさだまさし、南こうせつ、広島には吉田拓郎。いつ潰れてもおかしくない状況で、よく続けてこれたなぁって思っています。この前も、他の2人と飲みながらそんな話をしていたんですが、千葉が「武田さんには歌の中にお芝居があったから」って褒めてくれたと思ったら、「武田さんにはお芝居があって、他の人たちには歌唱力があった」って(笑)。まぁ、そうなのですけどね。俺は歌唱力はないけど、芝居で歌うんです。 ――それによって、歌への感情移入がしやすく感じられたんだと思います。 ありがとうございます(笑)。当時、周りの連中は「どういう音楽に影響を受けましたか?」と聞かれると「ビートルズ」とか答えてるわけですよ。僕も「『母に捧げるバラード』はどこから思いついた曲ですか?」って聞かれて、「ジョン・レノンの『MOTHER』を聴いて思いつきました」って答えたら、井上陽水が「ウソだ(笑)。似ても似つかない」って。本当のことを言うと、森進一さんの「おふくろさん」への対抗馬です(笑)。僕たちには洋楽じゃなく、昭和歌謡が根底にあるんです。美空ひばり、北島三郎、三波春夫…みなさん、歌を演じられておられる方ですよね。本当に素晴らしい方々です。僕らは昭和歌謡に影響を受けていると、今は自信をもって言えます。 ■「私たちは福岡に生まれていなかったら歌なんて歌ってなかった」 ――放送されるコンサートでは、歌う前に曲のエピソードなどをお話しされていて、各曲のバックグラウンドなどが分かって、よく知っている曲もまた違う一面が感じられました。 1曲目の「風の福岡」は、これまでのコンサートでも1曲目にずっと歌ってきた地元讃歌です。“風の吹く丘”とかけていて、俺たちは爽やかな街に生きてるんだっていう曲なんですが、今回のコンサートでもじっくりと聞いてくれる人が多くて嬉しかったですね。 ――「贈る言葉」は、ドラマ「3年B組金八先生」の印象が強くて、卒業ソングのようなイメージだったんですが、実は恋愛ソング、失恋ソングだったという。 はいはい。福岡の街で女性にフラれて、その時に作りました(笑)。私どものコンサートを楽しまれる場合、「この人たちはローカルな人たちなんだ」ってことを決して忘れないでください。私たちは福岡に生まれてなかったら歌なんて歌ってなかったと思います。3人が福岡で生まれ、青春時代を過ごしたということがすごく重要なんです。僕らの歌は全部、福岡の感性から出来ていますから。 ――今回のコンサートを見に行けなかった方も放送で見られるということで、こちらの見どころ、楽しみ方もお願いします。 はい。僕たちはすごく独特なステージをやっていて、なかなか歌わないっていう(笑)。たくさんしゃべってるんですけど、どうか笑ってください。あれはしゃべりながら歌ってるんです。“おしゃべり”と“歌”って二本立てのように言われますが、海援隊の場合、おしゃべりにすでに歌の要素がありますので、しゃべりがどうやったら歌に育っていくのか、しゃべり込みで、ぜひ楽しんでもらえたら嬉しいなと思います。 ◆取材・文=田中隆信