粟生隆寛 高校58連勝、強すぎるあまりに生まれた心の油断 世界では通用しなかったアマ時代の貯金…前編
史上初の高校6冠から鳴り物入りでプロ入りしたのが元WBC世界フェザー、同スーパーフェザー級王者の粟生隆寛(40)だ。絶妙なカウンターパンチを武器に日本人7人目の2階級制覇を達成したテクニシャン。「後楽園ホールのヒーローたち」第11回は、アマ58連勝からプロの世界に飛び込み、現在は帝拳ジムのトレーナーとして後輩たちの指導に励む粟生隆寛。現役時代、勝つことで生まれた心の油断、分岐点となったオスカー・ラリオス(メキシコ)との世界戦などを振り返った。(取材、構成・近藤英一)=敬称略= × × × × 引退発表から4年。今やトレーナーとしての姿も板についた粟生に現役時代に一番心に残る試合を聞いた。 「やっぱりラリオスの1戦目ですかね。いい意味でも悪い意味でも分岐点になった試合。初めて経験の差というものを感じた相手でした。攻撃を仕掛けようとしても、仕掛けられませんでした。それだけ相手にスキがなかった。それまでは勝って当たり前、勝つのが当たり前と思って試合をしていましたが、そんな中での敗戦でした」 2008年10月16日、WBC世界フェザー級王者オスカー・ラリオス(メキシコ)に挑戦した粟生は、4回にダウンを奪いながら後半アウトボクシングに徹したことで精彩を欠き1―2で判定負けした。アマ時代からの連勝は74でストップした。高校1年で出場した国体以来8年ぶりの黒星を味わった。ラリオスはそれまでに福島学、仲里繁、石井広三といった実力者たちの挑戦を次々と退けた、いわば日本人キラー。粟生もダウンこそ奪ったが、その老かいなテクニックの前に涙を飲んだ。 「負ける」というキーワードは粟生の中には存在しなくなっていた。習志野高校卒業後の2003年9月に2回TKOでプロデビュー。大物ルーキーは周囲の期待通りにプロ初戦をKO勝利で飾った。厳しいプロの世界に飛び込み何を感じたのか。粟生が当時を述懐した。 「特にプロだから苦労したということはなかったです。デビュー当時は色々考えいてるつもりなんでしょうが、今思えば何も考えていなんです。ほぼ勢いとか、そういったものだけ。それでも何だかんだ勝ててしまうというか、勝っちゃうんです。それまでの貯金で勝てたんでしょうね」 とらえようによっては努力を怠っているようにも聞こえるが、そうではない。粟生が口にした貯金という言葉には、ボクシングのために多くを犠牲にして費やした長い、長い時間が詰まっていた。プロボクサーになることが宿命だった。大場政夫(元WBA世界フライ級王者、帝拳)の大ファンという父・広幸は「男の子が生まれたらプロボクサーにしたい」という夢を抱いていた。広幸は自らが通うジムで教わったことを、自宅に戻り3歳になったばかりの粟生にそのまま指導した。小学校4年になるとプロのジムに通い始めた。 周囲が驚くほど成長は早かった。中学になると、出稽古がスタート。道場破りではないが、プロのジムを周りデビューしたての先輩たちとリングで向き合い打ち合った。高校進学前には「千葉に強い少年がいる」と、早くも名が知れ渡る。複数の強豪校から誘いがある中、習志野高を選んだ。当然、即レギュラーに抜てきされた。運命的な出会いは高校1年で出場した富山国体だ。準決勝で対戦したのが南京都高(現京都廣学館高)3年の山中慎介。後に同じ帝拳ジムで世界チャンピオンを目指し切磋琢磨する元WBC世界バンタム級王者だ。2歳上の山中に判定負けするが、その採点には納得できない点が多く「自分の中では今でも負けたとは思っていません」という。笑いながら口にする粟生だが、24年経っても譲れない気持ちはあるようだ。山中につけられた黒星が、どれだけプライドを傷つけたか。屈辱をエネルギーに粟生は勝ち続けた。それ以降、卒業まで58連勝を記録。高校1年でインターハイ、国体のタイトルこそ逃すが、それ以降は選抜、インターハイ、国体をそれぞれ2年連続で制覇した。当時、高校3冠でも大騒ぎという中での史上初の6冠を達成したのだ。 強豪大学からのスカウトには耳も傾けずに一貫してプロ志望の姿勢を崩さなかった。「5、6のジムから誘いはありました」という中、「父の中では早くからプロになるならば帝拳ジムと決めていたようです」。水面下での争奪戦は意外なほど静かに収束しデビューへと向かっていった。 アマ時代の「貯金」はプロになっても大きなアドバンテージとなった。ジムでは田中繊大トレーナーの指導を受け、リングに上がると白星街道を突っ走った。プロの世界は厳しい。頭では理解していても、どこか甘く見ていた。それが、粟生の言葉から理解できる。 「あの頃は『この程度(の試合)で必死に練習しないと勝てないようでは先がない』といつも思っていました。この位の相手だから、この位の練習でいいだろうと思ってやっていました」と、苦笑いを浮かべた。 2007年3月、プロ14連勝で日本フェザー級王座を獲得。翌年4月の3度目の防衛戦では東洋太平洋同級王者の榎洋之(角海老宝石)と2つのベルトをかけ対戦した。強打の実力者・榎との対戦には「これまでの相手とは実力が違う。さすがに本腰を入れて練習しました」と言ったが、心の奥底に「最終的には勝っているだろう」という気持ちが無かったとは言い切れない。試合は一進一退の攻防となり3人のジャッジすべてが引き分け。お互いタイトルの防衛には成功したが、粟生は続いていた連勝が74で小休止した。その4か月後、ラリオスへの世界初挑戦に備え日本王座を返上した。 向かい合ったラリオスは表現しがたいオーラを放っていた。4回にダウンを奪うアドバンテージも、後半に入るとすぐに無くなった。 「試合後に(後半)もっと攻めればという声を多くいただきましたが、それができない相手でした。向かい合った時の迫力、スキのなさ、これまで味わったことのないもので、これが世界チャンピオンなんだと、痛感しました」 その舞台は、粟生が口した「貯金」だけでは通用しない世界だった。プロ初黒星。アマ時代のものとは比べものにならないほど心へのダメージは大きかった。が、痛恨の世界挑戦失敗は、その数日後に確かな自信を芽生えさせる。漠然としか持てなかった自信が、確信に変わっていこうとしていた。(続く) ◆粟生 隆寛(あおう・たかひろ) 1984年4月6日、千葉・市原市生まれ。父の指導で3歳からグラブを握り小学校4年でジムに通い始める。千葉・習志野高では史上初の高校6冠を達成。2003年9月に帝拳ジムからプロデビュー。天才的なカウンターパンチで白星を重ね2007年3月に日本フェザー級王座を獲得。2009年3月にWBC世界フェザー級王者オスカー・ラリオス(メキシコ)を2度目の挑戦で破り、世界王座を獲得。初防衛戦で敗れスーパーフェザー級に転向。2010年11月にWBC世界同級王座を獲得し日本人7人目の世界2階級制覇を達成。3度の防衛に成功した。2020年3月に現役引退を発表。身長169センチの左ボクサー。戦績は28勝(12KO)3敗1分 け1無効試合。
報知新聞社